Passage du Sourire 再録2 後半

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3章

音が聞こえる。子供の声、バイクの音、かすかな鐘の音。
目を閉じたままベッドの近くにあるはずの赤外線ストーブに手をのばすと、冷たい空気が布団から出した手にまとわりついて、その指先から掌へ、掌から腕の骨へと冷たさが染み込んでいく。

冷え切ってしまう前にストーブのスイッチをひねらなくては。少し焦って薄目を開き、ストーブの位置を確認すると、伸ばした手の少し横にストーブがあるのが見え、手をずらす。
――おかしいな、触れない。
寝ぼけた頭でしばらくそう考えた後、ストーブが手の届く位置よりも遠くにあることに気づく。昨晩の僕は、なんでこんな遠くに置いたんだろう。ベッドから身を乗り出し、ようやく触れることの出来たストーブのスイッチをひねると、青江はそそくさとその手を引っ込めた。
ブォーン、とかすかな音を立ててストーブが冷えた部屋と腕を温め始める。
布団の中で音とまどろみとの間を行ったりきたりしていると、突然、ジリリリ! と激しい目覚まし時計の音がその関係を引き裂いた。
乱暴に時計の頭をたたき、寝ぼけた頭のまま布団から出て、水を入れっぱなしにしてある湯沸かしポットのボタンを押す。
ポットの中の水が沸騰する音を聞く頃には頭も冴えてきて、歯ブラシをくわえたまま机の上に置きっぱなしのカチカチのバゲットをざくりざくりと切り、トースターに放り込んであたためる。
歯ブラシをコップに戻した青江は戸棚を開けてコーヒーの粉を取り出すと、ドリッパーを直接マグカップの上に置いてじゃぶじゃぶとポットのお湯を注いだ。
注いだ湯がカップケーキのようにぷわりと豆をふくらませた後、その勢いを失ってカップの中に吸い込まれて行くのをじいっと眺めていると、トースターがチン! と音を立ててパンの焼けたことを知らせる。
少し焦げたパンを取り出し、最後のひとしずくまで落ちきって冬場の地面のようにカラカラになったドリッパーを外す。出来上がったコーヒーを持つと、青江はベッドの端に腰掛けた。テーブルの上の文庫本をどけ、その下にあった数日前の日付が印刷された新聞紙の上にパンを置き、本を開いて食べ始める。
どけた文庫本の表紙に『モンゴル帝国の繁栄と衰退』と書かれている。本を手に取り、適当なページを開いて2枚の立派な髭面の男の肖像を眺める。ふたつの肖像はどちらも似たような顔をしていて、どちらも髭を生やしている。
モンゴルに行ったことはないし、そもそもどこにある国なのかすら知らない。なぜこんな本がここにあるのかもわからない。いったい、この本はどこから湧いて出たのだろう。
頭の中に浮かんだ疑問を宙ぶらりんにしたまま、絵の下に二段組で書かれた説明文を読む。それによれば、この肖像は『チンギス・ハン』と『フビライ・ハン』のものらしい。かつてこのヨーロッパまでその勢力を伸ばした男の顔を眺め、コーヒーをすする。
パンを食べ終えた青江は、時計に目をやった。いつだったか客に譲られた、古く優美なその時計は、時の流れをそのままあらわしたかのような曲線の細工の入った針で、正確に時間を指し示していた。
そろそろ仕事を始める時間だ。階段を降りて店の扉の鍵を開け、『CLOSED』と書かれた札を『OPEN』のほうに裏がえす。
作業を始める前にお茶を煎れようと、炊事部屋へ行き、湯を沸かす。窓の外で鳴く、ケモノの声が聞こえる。
飽きることなく、青江がそこにいるのが分かっていて、呼んでいるんだ、というふうに何度も呼びかけるその声に根負けして、深めの皿にミルクを注ぎ、庭へと続くドアを開ける。そこには、最近よく見かける子猫が行儀よく座り、青江のほうを期待に満ちた目で見上げていた。この春生まれたばかりなのだろう、体こそ小さいがすでに人間の使い方を心得ているらしい。苦笑いして、ミルクを置くとそれを綺麗に舐めとり、ひとこと礼を言うかのように鳴いて、誇らしげに去っていく。
その姿を見送りつつ、紅茶を注ぎ、やっと作業部屋へたどりつく。棚の引き出しから箱を取り出し、机の上に置く。
ドアに引っ掛けてあったエプロンを付け、ポケットの中からミュージック・プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳にはめて適当な曲を流す。
プレーヤーの本体をズポンの尻ポケットにねじ込み、箱の蓋を開けると、その中に保管されたいくつものビニールの袋から赤いマジックの印のついたひとつを選び、その中に保管してある部品を慎重に取り出す。
作業に熱中していると、入り口の扉の鐘が鳴り、青江はルーペ越しに検分していた部品を置いて、店の方をのぞいた。
「アオエ、留守電聞いたよ。あの時計、どうなった?」
作業部屋から顔を出す青江に上機嫌で尋ねる恰幅のいい年配の男性は、近所に住む骨董と人の世話を趣味とする男だ。知り合いの家に出かけ、古い壊れた道具を見つけ出し、直してもいいという了承を取ると、それは嬉しそうに青江の店に持ち込んでくる。なんでも、その家の古い道具を見つけて使えるようにするのは俺の使命、ということらしい。
「ああ、あれかい? 今出すよ」
よいしょ、とカウンターの前の椅子に大荷物を置く男の気配を感じながら、作業机の後ろにある大きな戸棚の引き出しを引く。中にはラベルの貼られた、いくつものボール紙で包まれた品々が入っている。目的のものを見つけ、それを抱えて廊下を進む。
カウンターの前に立つ男の、嬉しげな姿にちらと目をやると、青江は手に持った品に注意を戻し、慎重にカウンターに置いた。包んでいたボール紙を外していくと、男の顔がだんだんと明るくなる。
「動いたのか」
ボール紙をすべてはずしてしまうと、先駆ける男に説明を始めた。
「まずここの取れてた飾り、埋めて直しておいたよ。中の機械は、バネを取り変えて部品を掃除したら動きそうだったから、やってみたら動いたんだ。そうだ、ここにあったひびも目立たないように直しておいた。あとは……特になかったかな。良さそうかい?」
太めの体の上に付いた頭を、フクロウのように回しながらカウンターに置かれた大きな置き時計をあちらこちらから眺め、感心したように相槌を打ちながら青江の話を聞いていた男は、話が終わるとふうむ、とひとつ息をつく。
「さすがだな、アオエ。いい仕事だ」
「それはどうも。はい、これ。請求書」
伏せた目をカウンターの上に固定したまま、置いてあった帳簿から一枚の紙を取り出した青江を見て、きみの仕事に間違いはないだが、相変わらずそっけないな、と苦笑する。
「わかった、わかった。すぐに振り込んでおくよ」
受け取った紙をひらひらと振りながら笑う男に背を向け、入れ物の箱を探しに行く。良さそうな大きさの木箱を見つけてカウンターまで運ぶと、男が屈んで荷物の中から大きな鏡のついたアンティークの万華鏡を取り出し、「これも直してくれるか、アオエ」とこちらを向いたところだった。
カウンターの上に置かれた際の衝撃で、万華鏡に張り付いた蜘蛛の巣がふわりと揺れる。
いつものことだ。
この男の家の倉には、こういった壊れた骨董ばかり入っているのだろうか。
はあ、とひとつため息をつくと、また蜘蛛の巣がふわふわ揺れる。
「これでもそこそこホコリ、払って来たんだけどな」
かろうじて姿を写している、万華鏡の下部に付けられた曇った鏡の中で、弁解するように男が言う。その、少しだけ申し訳なさそうな姿にいつもほだされてしまうのだ。冷たい雰囲気を含んだいつもの口調で、鏡の中の男に言い返す。
「わかったよ。どうにかなりそうだったら、また連絡する」
どうにかなりそう、というのは青江の控えめな表現だということを、男は承知していた。彼は引き受けると決めたら、どうにかしてそれを使えるようにするのだから。
「よろしくな」
そう言って男が出ていくと、閉じられた店の扉の勢いでちぎれた蜘蛛の巣のかけらがふわりと宙を舞い、廊下の奥へと消えて行った。またひとつ、仕事が舞い込む。やることが増えるのはいいことだ。閉じた扉を見つめ、自分の仕事を気に入ってくれる客に恵まれたことに感謝する。一緒にホコリも舞い込んで来るのはあまり歓迎しないけど。
口の端に作ったような笑みを浮かべると、青江は万華鏡を作業部屋へ運び、修理を待つ品々の並ぶ棚の一番右にことりと置いた。
ガラン、ガラン!
置いた瞬間、また鳴った鐘の音に驚き、頑丈な棚の角に小指をぶつける。痛いな。顔をしかめ、来店者を確かめる。先程の客が何か忘れ物でもしたのだろうか。
店のほうに人影が見えず、強風か何かだろうかと不思議に思いながら店のドアの方へ歩いていくと、扉の影に隠れて、細いシルエットの少年が立っていた。
「おや、小夜くん。何か用かい?」
「兄さんが呼んでる、店、手伝ってくれって」
珍しいな、と向かいの宗三の店を見ると、店の外に何人もの客が列を作っていた。
「うわ、どうしたんだい?」
「江雪兄さんの、イースターのチョコレートが届いたんだ」
目に一瞬喜びの光りをきらめかせ、小夜が答える。この時期に彼の兄の店で作られるチョコレートは、卵型のチョコレートの中に色々な菓子の詰められたもので、毎年大変な人気を博している。もちろん、彼もそれを楽しみにしているうちの一人だ。
「ああ、そういえばもうそんな季節だったね、手伝いに行くよ」
「珍しいね、貴方が季節のこと、気にするなんて」
前掛けを外した青江の背中に、ぽつりと小夜が投げかけた。
そうだったかな、と答え、ドアを抑えて小夜を外に促すと、自分も外に出て鍵をかけ、並ぶ客を横目に見つつ、店内に入る。中では、宗三が鬼のような形相で持ち帰り用の箱と格闘していた。
「青江、やっと来ましたね、この箱、全部広げといてください」
畳まれた大量の紙の箱の束を渡され、仕方ないので黙々と広げ、できたものを積んでいく。百はあろうかという箱をひとつひとつ丁寧に広げて積んでゆき、全部積み終わった頃、扉の向こうに並んでいた客がいなくなっているのに気付いた。
「ふう、やっと切れ目ができたね」
「何いってるんですか。今日のぶんが売り切れたんですよ、明日もまた、大忙しです。嫌ですねぇ、まったく」
宗三の言葉が終わらないうちに、ドアの開く音がして、『まったく』の部分がその音にかき消された。
「宗三! おや、青江もいるのか、久しぶりだね。イースターのチョコレート、あるかい?」
「ないです」
入ってくるやいなや在庫を確認する蜂須賀に、叩きおとすように宗三が言う。
「遅かったか……」
心底残念そうに肩を落とす蜂須賀に、明日も入荷するって、と励ますように青江が言う。
「ああ、あと少し早ければな……。じいやに捕まってしまっていたんだ」
「じいやに買いに来させればいいじゃないですか」
「それだと、家のものにばれるだろう?」
「へぇ。弟くんにでもあげるつもりなのかい?」
「ああ。あれはコウセツさんのお菓子が好きだからね」
そう言って蜂須賀は上品な微笑みをきらりと輝かせる。
「そういえば、君の友達いただろう? 彼も、コウセツさんのイースターのチョコ、楽しみにしていたよね。買いに来たかい?」
蜂須賀が話題に出した、『友達』が歌仙のことだとすぐに分かったが、誰のことだったかな、と思い出すふりをする。
青江の意思に反して、心臓が飛び出しそうなほどに早く波打つ。意外なほど動揺している自分をどこか他人事のように感じる。
「ああ、彼とは最近会ってないんだ……。買いに来たかい、宗三」
「知りませんよ、客の顔なんて、いちいち見ているわけないでしょう」
「そうなのか。本店のほうに行ったのかなぁ」
朗らかにそう呟く声を聞きながら、青江は自分の答えを頭のなかで反芻していた。声は震えていなかっただろうか。動揺を悟られはしなかっただろうか。
「そろそろ帰らなくちゃ。それじゃ、また明日」
店を出て行く蜂須賀の背中を見送り、部屋の中へ視線を戻す途中で、冷ややかな目をした宗三の視線と出くわし、反射的にふっと目を逸らした。
「あなた、歌仙と何かあったんですか」
「君に話す必要、ないだろう」
「ずいぶん会っていないんでしょう。わかりやすいんですよ」
「もう用は済んだんだろう? 行くよ」
「青江! 貴方そうやってまた……」
話を聞き終わらないうちに外に駆け出し、念のため大通りまで走って出ると、数分もしないうちに人混みの中にとけていき、自分がそれを構成するひとりとなったことを感じる。
宗三が言い当てたように、あの夜から歌仙に会っていなかった。あんなに親しいつもりでいたのに、よく考えて見れば連絡先すら知らなかったなんて、滑稽だ。歌仙のことを考えると、苛々する。僕のほうからは君に届かないのに連絡を断つなんて、勝手だ。
ぐちゃぐちゃとした赤黒い怒りを吐き出してしまいたい。歌仙の、あの落ち着いた強い瞳を見つめたい。歌仙が憎い。歌仙を前にした時の、あの暖かな気持ちを、もう一度感じたい。
こんな感情は知らない。何かを探すかのように、考えにふけってあてもなく歩いていた青江は、ふいに自分が知らない道を歩いていることに気づいた。
通りの名を確認し、周りを歩く人々の様子に注意を向ける。この街をかたちづくるひとりひとりに、それぞれの人生があることの膨大さについて考える。
電話をかけ、相手と何かの値段を取り決めながら歩いている仕事着姿の年配の男性。足がこすれあうほど近付いて歩きながら、シャンプーが引っ越しのダンボールの中から出てこない、と話をしている年若いカップル。凱旋門とエッフェル塔の大きなイラストが書かれた地図を広げていろいろな方角を指差し、どこのものかわからない、異国の言葉を話している三人の女性たち。
その誰もが、ばらばらの生活を持って、それぞれの性格を持ち、さまざまな人生の指針をもって生きているのだ。そして、僕はそのほとんどを覗くことすらなく生きている。そのことを思うと、青江は少し安堵する。
自分の知らないいくつもの人生が、そこにある。彼らの見ることのできるものだって、世界のほんの一滴でしかないのだ。そこに僕の人生が含まれていないとしても、僕が自分の人生を誰にも開かず生きているとしても、そういう生き方も許されているのだ。
考えているうちに、少し心が落ち着いてくる。通りの名を頭の中に描いた地図に当てはめ、自分の位置を確認する。今いる場所は、いつも歩く道の2本となりの道だろう。地下鉄の駅よりも数ブロック向こう側のはずだ。ひとまず慣れた通りまで戻り、引き返す。
いつもは歩かない道を歩いていると、見慣れた光景が姿をあらわす。たまに行く小さなスーパーマーケットの店先に、ホワイトアスパラが並んでいる。無意識に手に取り、その鮮度を確かめていると、数ヶ月前の歌仙の言葉が思い出される。
「生のホワイトアスパラが食べたいなぁ。あれを食べると、春が来たって、ようやく実感できるんだ。もう少ししたら店に並ぶから、最初に見かけたやつを買って、君のところへ持っていくよ」
嘘つき。歌仙の嘘つき。もうこんなスーパーにさえ、出回っているじゃないか。君のよく行く市場なら、ずっと前に売り始めているはずだろう。鎮まったはずの怒りがまたふつふつと込み上げてきて、先に食べてやろうとレジに並ぶと、財布をもって来なかったことに気づいた。
仕方ない、取りに帰ろう。
しかし財布を取って戻ってくると、アスパラは売り切れてしまっていた。空っぽのワゴンを見つめ、無駄足を踏まされた空虚さにしばし放心していると、突然言いようのないむなしさが襲ってきた。なんでこんなにみじめな気持ちになるのだろう。元の道を引き返し、歩きながら零れそうになる涙を、額にしわを寄せて堪える。もう嫌だ、僕は……もうこんなのは嫌だ。何もかも君のせいだ、憎い、君が嫌いだ、歌仙。

「青江……」
「サンドイッチ、くれるかい」
数週間ぶりにカフェに顔を見せた青江に声をかけようとする宗三を遮って、青江が注文をする。焼いたバゲットにチーズとハムの挟まれた、いつものサンドイッチを皿にのせて持ってきた宗三を向かいの席に促すと、青江はそれを食べながら話を切り出した。
パリを出て、どこか別の場所で数年暮らそうと思っていること。その間、ここの管理をお願いしたいということ。途中で割り込まれまいと、ひと息に話をした青江が伺うように上目遣いで宗三の顔を見ると、それまで口をつぐんで静かに話を聞いていた宗三は、はあああ、と長い溜息をついた。
「また、急ですね。……まあ良いですよ、どうせあなた、言い出したら聞かないですし」
宗三が断ってくるだろう、と構えて緊張していた青江は、肩透かしをくらった、というふうに目を丸くしてあっさりと引き下がった宗三のほうを伺った。
「当然、そのあいだの家賃は、タダにしてくれるんですよね」
なるほど、それが狙いか。
「もちろん、構わないよ」
宗三は青江のほうに満足気にひとつ頷いたあと、青江が気づかないほどかすかに眉を寄せ、淋しげに目を伏せた。すぐにその表情を解き、カウンターの端に並べてあった商品のクッキーをかじった。
「でもあなた、仕事のほうはどうするんです? 一応、あれでも客はいるのでしょう?」
「一応って……。もともと注文品はそんなにたくさんは受けていなかったからね。依頼を受けたものは、全部片付けてしまったよ」
「ふうん、そうですか。……はぁ、また朝買い出しに行かなくちゃいけなくなりますねぇ」
静かな昼下がりだ。いつもはやかましい道路も、たまに車が通る程度だ。小夜が奥のキッチンで、食器を片付ける音だけが聞こえる。
「じゃ、僕はそろそろ戻るよ」
食べ終えた皿をキッチンの棚に置くと、踏み台に乗って皿を洗う小夜がこちらを振り向く。今日も美味しかったよ、ありがとう、と皿を指してジェスチャーで伝える。
「そういえばあなた、いつ立つんです?」
「来週末かな。まだ少し、片付けが残ってるし」
「いない間にやること、まとめといてくださいね」
「わかった、作って持っていくよ」
事務的に会話を交わし、それじゃ、と出ていった青江の姿が向かいのドアに吸い込まれるのを、宗三はドア越しに見つめていた。

少し大きめのボストンバッグを肩に下げ、見慣れた玄関扉の鍵を、かちり、と閉める。少し離れて商品の片付けられた、何もない店内を見ていると、この店を始めたあの日を思い出す。
蘇る記憶を懐かしく思う。ずっと、ここで立ち止まっていられたら、それはそれで、幸せなことなのだろう。
ふっと踵を返し、宗三の店に入ると、まるで待っていたかのようにちょうど、扉を開けたところに宗三の姿があった。
「行くんですか」
「うん。これ、やってほしいこと、まとめておいたから」
薄いクリーム色の真新しいバインダーを手渡す。宗三はそれを受け取ると面倒くさそうにぱらぱらとめくり、ぱたりと閉じて青江の顔を見た。
「寂しくなりますね」
「へぇ、寂しいって思ってくれるのかい? 嬉しいな」
「……はぁ。怒ってもしょうがないんでしょうけど、あなたって本当、馬鹿ですよねぇ」
「……しばらくお別れだっていうのに、厳しいねぇ」
宗三はしばらく、この男には何を言っても駄目だ、というような呆れた視線を青江に浴びせると、早く行きなさいな、というようにその背中をばんと叩いた。
「痛いよ……。じゃ、行ってくるね」
見慣れた石の門をくぐる。通り抜けたばかりの門を振り返り、思う。
――この門は、どこへつながっているのだろうか。

駅の中央に掲げられた国際線の電光掲示板を眺めながら、どの列車に乗ろうかと先程から半刻ほど、青江は考えていた。ここで立ち止まっているぶんには怪しまれることもない。ボストンバッグの重さを肩に感じながら、自分に必要なものの重さは結局こんなものなのだ、と考える。この街にやってきた時は、もっと荷物が多かったような気がする。あの時は、帰るつもりがなかったからだろうか。それでも大きめのトランクひとつで充分だったけれど。
パスポートなどの証明書類やらカードやらと、コンピューターと、とりあえず着るための服を何枚か、そして、使い慣れた仕事道具をいくつか。必要なものの入った鞄の、重さを確認するように肩に掛け直す。
あんなにたくさんのモノに囲まれて生きていたのに、結局それらは、僕にとって通り過ぎていくものであって、所有するものではなかったのだろう。
電光掲示板に意識を戻す。行の先頭に、イタリア行きの列車の名前と、発車時刻が書かれている。それは、次に来る列車がイタリア行きであるということを示している。パサージュ内に住んでいた陽気なイタリア人を思い浮かべる。イタリアは嫌だな、暑いし。次の行に目を移すと、スイス行きの列車がもう1時間弱で来る、と書かれている。パッケージにスイスの山々の描かれた、有名なブランドのチーズのを思い浮かべる。隣国に住んでいるのに、それくらいしか、かの国に関する知識はなかった。でも、スイスといえば職人の国だ。そこでしばらく仕事をしてみるのも良いかもしれない。
知らない技術を覚えられる可能性もあるし。
めちゃくちゃな間隔で人の並んでいるチケット・カウンターの先頭で客が大声で文句を言い、負けじと駅員が文句を言い返している。後ろに行列を作っている客がうんざりしているのに、それを構いもしない様子で、客がなおも大声を出す。通りがかったスーツ姿の男が、その声に驚いたようにそちらに顔を向ける。
そんな様子を見ながら、自動券売機でチケットを買い、時間を潰すために構内のカフェへと向かった。コーヒーを頼み、周りで飛び交うフランス語を聞きながら、しばらくはフランス語も聞けなくなるな、と少しばかりの感傷に浸る。そういえば、スイスはドイツ語圏ではなかっただろうか。慌ててスマートフォンで検索し、フランス語や英語も一応通じるようだ、と少し安心する。
カフェを出て、列車の中での暇つぶし用にスイス職人街の歴史について書かれたペーパーバッグを買う。パラパラとめくって、絵や写真の多いものを選ぶ。
駅のプラットフォームへ出ると、だだっ広いそこは人でごった返していて、なかなか進むことができなかった。
仕方ない、しばらく人の流れに沿って進んで、流れが切れたところで国際線の乗り場まで行ければいいだろう。
そう思って進み始めたときだった。人の波の切れ間から、見覚えのある、ぴんと立った紫色の毛先が見えたような、気がした。
――まさか、人違いだろう。
頭ではそう思っても、確かめずにはいられなくて、人をかきわけ進む。
近づけば近づくほど、彼であるような気がしてくる。
人と人との間に隠れ、たまに覗かせる頭を見失わないように願いながら、青江は自らの目的も忘れて、夢中でその背中を追った。追い続け、30メートルほどの距離まで近づき、歌仙くん! と大声で呼びかける。こちらに気づいていないのか、歩き続ける歌仙を追って、また彼の名前を呼ぶ。青江に押しのけられた客が、迷惑そうにこちらへ文句を言ってくる。あと25メートル。「すみません、通して!」……あと20メートル。
なぜ気づかないのだろう、こちらを振り向くくらい、してくれてもいいのに。苛立ちながら多すぎる人の間を進む。
と、横から来た駅員に腕を捕まれ、「危ないから、走らないでくれ!」と大声で注意される。振り向き、わかった、と短く返事をして、元の方向に視線を戻す。しかし、そこに歌仙らしき男の姿はなかった。
慌ててあたりを見回す。右へ曲がったのだろうか。それとも、階段を上っていってしまったのだろうか。しかし、どこにも見つけることができない。途方に暮れて押されるままに歩いていると、人の数がだんだんまばらになっていき、いつの間にか青江は目的の列車のターミナルに到着していた。
あの歌仙は、幻だったのだろうか。国際線、スイス行き、と表示された掲示板に力なく目をやり、その横にある時計を確認する。あと、5分で出発する、と書かれている。
「まもなく、高速鉄道、ジュネーブ行きが出発致します。車内ではスリにご注意を……」
数ヵ国語で流れるアナウンスを聞きながら、この電車に乗らずに、ここで歌仙を探そうか、という考えが頭をよぎる。
あるいは、歌仙の住んでいるところを探すのもいいかもしれない。あの美術館の近くだと言っていたのだから、あのあたりを探せば、会えるのかもしれない。そのことについて考えそうになって、頭を強く左右に振る。
ああ、せっかく忘れていたのに、こんな間際になって思い出すなんて。いいんだ、もう彼のことは。行くと決めたのは自分だろう?
ふう、と一つ深呼吸をして歩きだす。あの代わり映えのしない日常に戻るのは、もう嫌だ。タラップに、足を踏み出す。
「青江!」
その時だった。後ろから名前を呼ぶ声が聞こえ、宙に出した足が固まった。錯覚かもしれない。ただの、空耳かもしれない。気づかないふりをして、無視して電車に乗ってしまおうか、としばし思案する。
「青江! 青江だろう?」
聞き間違えようのない、その声と同時に、発車ブザーが鳴る。
――ああもう、いつもいつも。少しは僕の事情も考えて欲しいものだ。
目の前でドアが閉まる。大きなため息をついて振り向くと、汗だくで息を荒くした歌仙が荷物を振り乱してこちらへ走ってくるのが見えた。滑稽な姿だ、と思いながら、「歌仙くん」と返事をする。
歌仙が青江のもとへ到着するとほぼ同時に列車が動き出し、息を荒げて興奮ぎみにこちらに叫んだ歌仙の声が、列車の音にかき消される。
「歌仙くん、なんで君、ここにいるんだい」
青江は自分の声も届いていないことに気づき、汗だくの歌仙としばらく見つめあう。
なぜ君がここにいるんだ。歌仙の額に貼り付く髪を、冷たく睨みながら考える。僕のことをおいて、どこかへいってしまったくせに。
なぜ今なんだ。空っぽの僕の店の前で、君が後悔するはずだったのに。ふつふつとこみ上げてくる怒りを気取られてしまわないよう押さえつけて、平静を装う。
電車の音が消えるやいなや、歌仙が先に口を開いた。
「どうして君、こんなところにいるんだい? どこ行くんだい?」
「君は?」
「僕は……。どこか新しい土地でお金貯めて、やり直そうと思って」
歌仙が自信なさげな声で呟く。そうか、と返事すると、青江は?と聞かれ、パリでの生活にも飽きたから、スイスに技術を学びに行こうと思って、というような趣旨の返事を返す。
「それじゃ、久しぶりに会うこともできたし、お互い行こうか」
切符も買い直さないといけないし、と切符売場のほうへ向かおうとする青江のジャケットの裾が引かれる。
「待ってくれ! ……いかないでくれ、青江」
爛々と光る力強い瞳で青江のほうをまっすぐに見つめる歌仙と目が合う。目が合った瞬間、ああ、これこそ歌仙だ、僕の焦がれた彼の強さだ、と思う。
「すまなかった……君を避けるような真似をして」
こわかったんだ、君に嫌われるのが。そう続ける歌仙に、思わず、君のことを嫌ったりしないさ、とむきになって言い返す。
「わかってるさ……君は僕のこと嫌ったりしない、でも、怒っているだろう? 君みたいな人は初めてだったから、僕は君がなんでも受け入れてくれるって、僕を僕のまま受け入れてくれるって、勘違いしてたんだ」
その言葉にはっとさせられる。あの日、僕は無意識に彼のことを拒んでいたのだろうか。僕は彼に、理想を押し付けていたのだろうか。握った拳に力が入りすぎて、腕が、体が痙攣するように震える。それでも、それでも僕に怒るだけの理由はあるはずだ。僕の怒りは、正当なものであるはずだ。
目を伏せ、歌仙の言葉に耳を傾ける。
「ごめん、でも僕が君の望んだ僕じゃないとしても……君が、僕の望んだきみじゃなくても……僕は君といたいよ……」
あの時、どうすればよかったのだろう、今、どう言えばいいのだろう。後悔と、不安と、少しの安堵が胸いっぱいにあふれて来て、こぼれそうになる。
「僕は……きみのこと、好きだ。せめて、返事くらいさせてほしかったんだ」
肺に残った空気をかき集めてどうにかそう絞り出したものの、涙があふれてきてしまって、言葉の最後がきちんと聞こえたのか、わからない。ぼろぼろと涙の粒を落としながら歌仙の顔を見上げると、歌仙もぐちゃぐちゃに泣きはらした顔で顎の先から涙を滴らせていた。
頬を伝って落ちる涙の粒が、外から差し込んでくる光を反射させて、きらきらと光る。今まで何を考えていたのか忘れてしまうくらいその光が綺麗で、みとれてしまう。
「すまない、青江……すまない。何度も行ったんだ、あの石の門の前まで。でも、くぐれなかった。きみはきっとぼくを拒絶したりしない。でも、一緒にいたいって、そう言ってもらえるか、不安だったんだ」
「ぼくは……きみといたいよ」
「ああ……うん、青江」
涙とはなみずで顔をぐしゃぐしゃにしながら、しゃくりあげる合間を縫い、歌仙がそう答えてくれたことにほっとして、嬉しくて、可笑しくて、それでも涙は止まらなくて、「ははは」と泣きながら笑ってしまう。
「ううっ…ぐすっ……ふぐふっ……きみ、ひどい顔だよ」
「ふ……ぶふっ……きみにいわれたく……ひっく……ないよ……ぶふふっ」
たくさん、とてもたくさん言いたいことがあったはずなのに、どれひとつ思い浮かばないまま、せめてまた離してしまわないないよう、彼のコートをつかんだ指に力を込める。

「ふう。電車も行ってしまったし、アパートも引き払ってしまったし。今日寝るところないんだ。ねぇ、君のところにしばらく泊めてくれないかい?」
「いいよ。どこでも好きなとこに寝なよ」
「君の上とか?」
「そうそう。廊下とか、机の上とか。どこでも構わない」
「ふうん、太っ腹だね」
冗談を言い合いながら、駅の外へ向かう。
円形の窓ガラスから差し込む光がタイルに反射して、美しい白色に輝く。パサージュのタイルの感触を懐かしく思いながら、青江は歌仙の手を握った。

4章

目を閉じたまま、布団から手を伸ばし、ストーブを探す。
もう春だというのに、朝晩はまだ冷え込む。
ストーブを見つけられなくて、また遠くへやってしまったかな、と寝ぼけ眼を開き、起き上がる。その瞬間、青江は自分がソファーで寝ていたことを思い出して、苦笑した。
布団を肩にかけたまま立ち上がり、ベッドの上を見に行く。
いつも青江が寝ているそこに、今日は歌仙が眠っている。見慣れた枕の上に、歌仙の頭が乗っているのが不思議だ。その甘い色の髪を撫でてみたくなる。
「歌仙くん、朝だよ」
試しに声をかけてみる。が、彼の意識は青江の声が届かない夢の中の世界にあるようだ。すうすうという呼吸の音にあわせ、布団の山が上下する。昨晩たくさん泣き、たくさん笑ったその目元が赤く腫れている。
青江は手の甲を歌仙のほほの上に滑らせて、彼の実在を確認した。そうしてもう一度彼の名を呼び、目を覚まさないことを確認すると、身をかがめて、その頬の一番高いところにそうっと唇を付けた。青江のさらさらとした長い髪がそのまぶたをくすぐり、歌仙は「んん、」と寝返りを打ち、眉間にしわを寄せて目を薄く開く。
「歌仙くん、おはよう」
目をしばしばさせながら、自分を覗き込んでいる青江の顔をしばらく睨んだのちに、歌仙は口を開いた。
「おはよう。おい、今僕にキスをしただろう」
「ばれちゃったかい?」
「ああ」
「仕返しだよ、あの時の」
「そうか」
そう言って、青江に背を向けたまま歌仙は起き上がり、そのまま廊下に出て洗面所へ行った。
しばらくして戻ってきた歌仙は、壁際に置かれた湯沸かし器についたボタンを片っ端から押し、最後にようやく電源スイッチを見つけると、それをカチッとオンにした。
「なら、これでおあいこだろう?」
ただの独り言だとでもいうように、ちいさく呟く。
その声に含まれた情けない響きを、もう少し楽しんでいたい、と思いながら、青江も独り言だ、というふうに宙に目をやり、「うん」と呟く。
ちらりとこちらに目をやった歌仙と目が合う。
「ねえ君、いつから僕のことが好きだったんだい? あの夜、あまりにも唐突だったじゃないか」
ソファーに腰掛け、沸いたお湯でお茶を煎れている歌仙の背中に、そう問いかけてみる。
歌仙はしばらく黙り込んだまま紅茶を煎れ、青江の隣に腰掛けたあと、おもむろに口を開いた。
「そもそも君が悪いんだぞ。ぼくは、君も僕のことをとっくに好きなんだと思っていたんだ。だから、勇気を出して君に近づいてみたのに。あんな反応するから、嫌われたのかと思った」
そう言って、ずず、と茶をすする。
あの夜自分がどんな反応をしたのか、記憶をたどったものの、まったく思い出せないまま、ぼんやりしていると、なにを考えているんだい、と歌仙に顔をのぞき込まれた。
「きみ、よくそういうふうにひとりで考えこむだろう? そういうとき、君が何を考えているか知りたいと思って、いろいろ想像するんだ」
こちらをのぞき込む歌仙の目の中で、翡翠色の虹彩が美しい濃淡を描き出している。
「へぇ。たいしたこと、考えていないよ。僕にとっては、君の見てる世界のほうが、よっぽど不思議だ。きみの話してくれる世界は、僕と同じ現実じゃないみたいだ」
ふうん、と考えこむ歌仙の横顔を見つめる。僕たちは、あまりにも違う人間だ。物語に語られるような、勇ましく戦う勇敢な戦士でもヒーローでもなく、平凡な、つまらない人間だ。青江は、自分たちがそうあることを愛しいと思う。
「あ!」
歌仙が何かに気付き、跳ね上がるようにソファーから立ち上がると、棚の上に置いてあった灯籠型のランプを手に取った。そういえばあの時、初めて会ったときも、ああいう嬉しそうな顔で、あのランプを手にしていたな、と思い出す。
「青江! このランプ、誰の作だい?」
ずいと顔を寄せてきた、興奮しきった様子の歌仙に、僕だよ、と何気ない口調で答える。
「へぇ、君かぁ……。え! 君なのか!」
「うん。まだ見習いだったときにね」
故郷の家の敷地にあった、灯籠をモデルにしたんだ。まだその時は技術も未熟だったから、あんまり見られると恥ずかしいんだ、と説明する。
「ねぇ、これは素晴らしい品だよ。きみの、心が灯っている。なんで作家にならなかったんだい」
歌仙に褒められると、嬉しくなってしまうのはどうしてだろう。彼の言葉に、嘘や誇張がないことがわかる。頬が熱くなる。
「向いていなかったからね」
そう、言い訳してみる。でも、と不服そうに引き下がる歌仙の声を聞き、あの頃のことを思い出す。
あのとき、この国に来たばかりの時、故郷が恋しくて、ひとりぼっちなのが寂しくて、ひたすら仕事に打ち込んだ、あの時間も無駄ではなかったのだろう。
そこまで考えた青江の頭の中に、ふわりとひらめきが舞い降りた。
――そうか、ぼくはもうとっくに、ひとりぼっちではなかったのか。
馬鹿ですね、と言った宗三の声が、頭の中でこだまする。
まったく、そのとおりだ。歌仙の顔を盗み見ると、まだ残念だ、とかなんとか言いながら埃のついたランプの傘を綺麗にしているところだった。
「まあいい。いつか、光を灯したところを見せてくれ」
とりあえずはよし、というような口調で、歌仙が綺麗になった傘を灯籠の上にはめこむ。

その瞬間、一階の方でばたん、と戸が開く音がし、少しガタガタ音がした後、乱暴に階段を上って来る音が聞こえた。
何事か、と思わず歌仙のほうに身を寄せて待ち構えていると部屋の扉が乱暴に開き、息を切らして手にモップを構えた宗三が現れた。
開口一番、「はぁ?」と、そんな大きな声出せたのか、と青江が驚くほどの大声で言うと、「なにしてるんです、あなたたち」と身も凍るような鋭い声で、問いかけられた。青江はそこでようやく宗三にここの管理を依頼してあったことを思い出し、きまり悪そうにもじもじとした。
「その、宗三くん? やっぱり、行くのはやめにしたんだ」
「……」
「ごめん、家賃はしばらく要らないから、許してよ」
「……」
宗三は真顔のまま、構えていたモップで青江の尻を突き、突然のことに膝を折って地面に座りこんだ青江を一瞥すると、大きな足音を立てて、店へ戻っていったようだった。
「僕が怒らせてしまったかな」 
尻をさすっている青江に向かって心配そうに言う歌仙に、いいんだ、あれは僕に怒ってるだけだから、と返事して、そういえば、と話題を変える。
「ねえ歌仙くん、そういえばさ、あの鳥、動くようになったんだ」
あの鳥? と首をかしげ、思いあたるものを探している歌仙に、あのバードケージだよ、と言葉を付け足すと、ああ、あれかい、と嬉しそうにふんわりとした笑みをこちらへ向けた。
ちょっと待っていて、持ってくるから、と下の作業部屋にそれを取りに行く間に、歌仙は戸棚をいろいろと開け、ようやくコーヒーの粉を見つけたようだった。青江は持っていたくたびれたダンボールの中からそれを取り上げ、歌仙の目の前に掲げる。
「ほら、綺麗に直っただろう。この鳥、もともと3羽だったみたいなんだけど、ひとつ、なくなっていたんだ」
歌仙の青い目の奥に、鳥かごの金色が反射して映る。
「この小さい鳥は、僕が作ったんだよ」
青江が一番下の青い鳥を指差すと、歌仙の視線がその指先をなぞるように下を向き、その鳥のあたりで止まった。
「鳴らしても、いいかい?」
どうぞ、と青江が促すと、歌仙は右にある小さなスイッチを押し込んだ。その途端、命が吹き込まれたように、チチチ、チチチ、と小さな翼を動かして、鳥が鳴き交う。その様子を見て、歌仙が愛しそうに、笑顔を浮かべる。青江は、その顔を見て、作業をしていた時のことを思い出した。頭に固定したルーペから指先を覗き、ピンセットで扱わなければならない小さな部品を扱いながら、頭には、歌仙の笑顔が浮かんでいたのだった。これを見せたら、歌仙は喜んでくれるだろう。そのことばかり考えて作業をしていたな、と思い出し、今更ながら恥ずかしくなる。
「ここに置いておくのもなんだし、君にあげるよ」
自分の殺風景な部屋を見回し、そう歌仙に告げると、失礼な、という顔をする。
「人から貰ったものを突き返すなんて、雅じゃないぞ」
そういえば、前も雅がどうとか言ってたな、口癖なんだろうか。
「じゃ、どうしようか。この鳥も、この部屋に置かれたんじゃ、浮かばれないだろう?」
「……その意見には、同意せざるを得ないね」
飾り気のない机の、ペンキの剥げた部分を指でさすりながら、歌仙も同意する。
「どうしよう。宗三くん、だいぶ怒ってたし、これあげたら、機嫌直るかな」
「どうだろう。彼はこういうの、趣味じゃないと思うよ。どちらかというと蜂須賀のほうが好きだろう、こういうの」
「そうかな……。まあ、とりあえず持っていってみようか」

「この鳥、よく見たら僕ら兄弟に似ていますね、ほら、羽の色が僕らの髪の同じですし」
青江と歌仙が小さくなって宗三の店へ行き、もごもごと一通り謝ったあと、サンドイッチを注文して、鳥かごを差し出すと、宗三はそう言ってそれを手に取った。
「まあでも、要らないです。置く場所とかないですし……」
そう言って突き返した宗三に、
「ここ、スイッチ押すと鳴くんだよ」
と青江が鳥が鳴き交うところを見せる。つんと向こうを向いたまま、そんなの見せられても要りませんよ、という態度の宗三に途方に暮れていると、奥からサンドイッチを持ってきた小夜が、わあ、すごい、と小さな感嘆の声を漏らす。
「気に入りました。そこの入り口の花の横にでも置いておいてください」
ひらりと華麗にてのひらを返すと、宗三はライラックの花束の生けられた花瓶を指差した。
小夜はといえば、気もそぞろ、といったようすで青江と歌仙にサンドイッチの皿を渡し終えると、鳥かごの前へ行き、スイッチを自分で押して、鳥の鳴き交う様子をじいっと見つめていた。
「兄様、この鳥、僕達みたいだね」
鳥が鳴き終わり、いたく気に行った様子でそう話す小夜に、宗三が上機嫌でうなづいている。
「持ってきて、良かったみたいだね」
小声の青江に、歌仙も小さく頷いて、宗三の顔を伺いながら神妙な顔でサンドイッチをひと口、かじる。
「やはり美味しいね、小夜のサンドイッチは」
満足気にそう囁いた歌仙の口の端についたマヨネーズを指差して、付いてるよ、と教えると、どこだい、と紙ナプキンで口の周りをわしゃわしゃと拭う。
そんな歌仙の様子を見ながら、これまでのことを、思い出す。僕は、どこかに進むことができるのだろうか。
新しい客が来て、パサージュの中を通り抜ける春の香りを乗せた風が開いたドアから吹き込み、歌仙の髪を撫でた。
友達という関係を超えてしまった僕らは、ほほえみの名を冠したこのパサージュで、僕らだけの新たな関係を紡いでいけるのだろうか。
きっとそこには、きみの笑顔が咲くのだろう。

そんな明るい希望を抱きながら、サンドイッチに夢中になっている歌仙に尋ねる。
「これからどうするんだい、歌仙くん」