Passage du Sourire 再録1 前半

目次

序章

ガランガラン……
店内に鐘の音が響き渡る。ランプの手入れをしていた青江は思わず作業の手を止めた。
――しまったな、店を閉めるのを忘れていた。
磨いていた部品をごとりと机に置き、作業部屋の開け放した扉から店内を覗くと、分厚い重そうなコートをまとった男が店内を物色しているのが見えた。

見たことのない男だ。
熱心に品物を見定めている様子で、声をかけるのも気が引ける。まあ、そのうち帰るだろう、と放っておいて作業に戻る。
吹き付ける風が窓枠をガタガタと揺らし、壁が軋んだ音を立てた。コツ、コツ、と時計の秒針が壁に響く。その音に混じって、店の方でたまに男が動き回る足音がかすかに聞こえる。
「このアール・デコ風のランプ、良いものだね? サインは無いようだが……誰の作だい?」
唐突に、店の方から男が声をかけてきた。朗々としたよく通る声だ。
彼の問いかけを無視して作業を続けるか少し迷ったが、答えることにしてランプを置き立ち上がる。
店の品をいろいろいじられても面倒だ。
防護ゴーグルを額のほうにずらしながら店のほうに行くと、男が手前の壁の前にしゃがみこんで、下の棚の奥に隠しておいた見覚えのあるランプを手にとり、裏返して熱心に眺めていた。
「ちょ、ちょっと、そんな奥にしまってあるやつ触らないでよ」
慌てて彼の手からそれを取り上げる。
「もう閉める時間だから、見たら出てってくれ」
そう、言い放つ。
しかし男は青江の手の中のランプを名残惜しげに見つめながら、そうか、と残念そうにつぶやくと他の棚を眺め始めた。
やれやれ、まだ見るつもりなのか。勘弁してくれないかな。
ランプを持って作業部屋に戻る。ゴーグルを下げ、机に置いた銀製の部品を取り上げる。
もともと細かい掘り細工が入っていたのだろう、全体を覆うサビの隙間から、地の細工がところどころ覗いている。
どうしたらこのサビの塊から、もとの美しい姿を発掘し直せるのだろうか。拡大率の違ういくつかのルーペを使ってサビの状態を観察しながら、用意した幾つかの方法の中から最適なものを選ぶためにまた考える。青江はあれこれ思案する、この時間が好きだった。
無神論者である彼は作業をするたび、信仰とはこういうものなのだろう、と想像する。この瞬間、僕を支配しているのはこの部品そのものだ。
今となっては名前も知ることはできないけれど、昔、ひとりの人間が、鋳型から取り出したばかりのなめらかな光を放つ銀の塊を手に取った。僕が使ってるこの部屋と同じような狭い作業部屋の、頑丈なテーブルの上で、使い込んでまだらになった鏨をいくつも使い、長い時間をかけ細かい細工を彫り込んでいったのだろう。完成した彼の作品は、いろいろな場所で活躍しながら人の手をわたり歩き、そして今ようやく僕の手の内に流れついたのだ。
修理工である自分にできることは、残されたパーツの組み合わせから、在りし日の姿を取り戻す手助けをすることだけだ。
このランプの長い歴史の中に、僕は挟み込まれたにすぎない。僕が修理した製品が、また長い時間活躍し、そしてまた誰かの手によって修理されるならば、それは僕としても冥加に余ることだと思う。
――そういえば、あの客はどうしただろう。
修理に夢中になっていた青江が顔を上げると、開けっぱなしのドアの向こうから、こちらを見つめる男と目が合い、驚いて飛び上がりそうになる。男の方も突然彼が顔を上げたので吃驚したらしく、おどおどしている。
「あ、その……ド、ドアが開いていたものだから……すまない」
「ドアが開いていたからって、勝手に人の部屋を覗き込むなんて、感心しないね」
つい口調がきつくなる。嫌だな、気をつけていたのに。  
「すまなかった」
しおらしげな様子で彼が言う。
「今日はもう閉めるよ」
たたずむ彼をよそ目に、青江は机の上の鍵を持って店の入り口のドアへ向かう。扉を開き、おずおずと後ろからついてきた男を外に促すと、男が振り向いて言った。
「……また、来てもいいかい?」
「……勝手にしなよ」
「ありがとう。また来るよ。……僕はカセン。カネサダ・カセン。君は?」
「青江」
「ありがとう、アオエ。良い店だ」
思いがけず褒められたことが意外で、扉を押さえたまま適切な言葉を探す。
そうしているうちにカセンと名乗った男は分厚いコートを羽織った大きな背中を縮こまらせ、門の向こうへと消えてしまっていた。
また来てもいいかい、という男の言葉が脳内でこだまする。
また来た時には、と青江は思う。その時には愛想良くしよう。そう心の中で決め、店の扉を閉めた。

1章

「すまないね。君の店のものが良い品だということはわかっているんだが」
「いや、いいんだ、ありがとう。……また来るよ」
店を出た歌仙はため息をついて、地下鉄の駅へと歩き出した。最近ではこうして客先を歩き回っても、商品を買ってもらえることは稀だ。
歌仙は自分の店で、アンティークの家具や調度品を扱っている。近頃アンティークを買う余裕のある客は少なくなり、新規の客がめっきりと減った。新規の客どころか、最近では昔から贔屓にしてくれている客も離れがちだ。
店に置いてある品々は皆、歌仙が自ら各地の骨董市、フリーマーケットなどを歩き回って見つけたものだ。
見つけた時にはボロボロだった品を、手間暇かけて磨き、時には馴染みの修理屋のもとを訪れ、もとの姿を取り戻させる。そうして蘇った立派な品々をみると、我が事のように誇らしくなる。
客も彼の目利きを信頼し、少々値が張っても通ってくれていたものだ。
それが今ではどうだろう。店の売り上げは落ち込み、赤字を埋めるために頭を下げて買ってもらわなくてはならなくなった。大切に店に並べた品々が、仲買人経由で、顔の見えない金持ちにまとめて買い上げられていく。
それで店は助かるが、歌仙は面白くなかった。あの品々は大切にされているのだろうか。

取り扱った沢山の品物に思いを馳せつつ、メトロの駅へと歩いてると、道の先に人だかりができているのに気づいた。観光客だろうか。あるいは、何か騒動があったのだろうか。
なんだか知らないが、人ごみを通りたくはないな。少し回り道にはなるが、確かこのあたりの道からでも行けたはずだ。そう思った歌仙が立ち止まり、顔を上げあたりを見回すと、そこには横道へと続く石造りの薄暗い門があった。
古めかしく、分厚い門。金属製の扉は開いている。門の向こうの光の中に、店構えを見ることができた。
――こんな所、あったかな?
門の横に掲げられた黒塗りの看板はところどころ剥げ、錆び付いている。しかしその汚れにも負けず、そこに書かれた仰々しい金のセリフ体が主張していた。

『 Passage du Sourire 』(パサージュ・ド・スーリール)

こんなところにパサージュがあったのか。……笑顔の名を冠するにしてはくたびれた門構えだ。
心の中で苦笑しつつも、歌仙の足はその中側へと向けられていた。

道にそびえ立つ威圧感のある石造りの門を抜けると、少し道幅の広い、光の差し込む明るい通路に出る。
通路の両脇には様々な店舗がずっと向こうまで連なっている。天井にきっちりと60度の角度で備え付けられた三角形のアーチ状のガラス張りの天窓が、いつか食べたガトー・ピラミッドを連想させる。
天窓から差し込んだ光が、右手側にある小さなカフェのショーウィンドウの中に並べられたマカロン菓子を照らし、その鮮やかな色彩を浮かび上がらせている。
道に敷かれた、つるつるとしたベージュの正方形のタイルはところどころ欠けてはいるものの、よく磨かれていて、白く光を反射させている。
パサージュというのは、主に19世紀に作られた、昔の高級商店街だ。一般的に1階は商店、2階は個人の住宅になっている。道の状態の悪かった19世紀頃には、歩きやすく、高級店の連なるパサージュは人の集まる場所であったが、百貨店などの登場によりその役割を終え、衰退していった。ここは今でも残る数少ないうちのひとつなのだろう。
歌仙はパサージュというものが好きだった。忘れ去られてしまった美しいもの。自分が扱ってきた品々を連想させられる。
昔はパサージュ内にある骨董の店の仕入れを担当していたこともあって、しょっちゅう通っていたが、そこの店のオーナーが自国に帰ってしまってからというもの、訪れる機会がないまま過ごしていた。
いや、機会ならあったのだろう。単に、新しい場所に足を向けるだけの余裕がなくなっていただけだ。
すれ違うには少し狭く感じる通路で、仲良く腕を組んで歩く老夫婦の横を、書類を抱えた急ぎ足の青年が小さく声をかけて通り過ぎて行く。
かと思えば、例のカフェの前では、店名の書かれたガラス窓の前に置かれた小さなテーブルにティーセットを用意して、小さな木製の丸椅子に座ったエプロン姿の青年が、道の狭さも気にかけずくつろいでいる。
頭上にはそれぞれの店の掲げた看板がぶらさがっている。
ベージュ、黒、白……さまざまな書体で書かれた看板が通路の奥まで何枚も連なっているのが見える。
連なる店構えを見ながらぶらぶらと歩き出す。モダンな家具を置いた家具店、分厚くて値の張る美術書ばかり並べてある本屋。
右手の店の窓際には街のいたるところで見る、エッフェル塔の小さなキーホルダーがきれいに積んである。土産物店だろうか。
左手の店の前のワゴンの中には、何十年も前の古いダイレクトメールの使用済み封筒が並べてあり、その上に『ふたつ1ユーロ』と無愛想に書かれた紙が乗っている。
その奥の店にはオリジナルのミニチュア模型パーツが所狭しと並べられている。
個性的な店ばかりで、見ていて飽きない。
すっかり夢中になってしまった歌仙は、立ち並ぶ店に入ったり出たりを繰り返し、ようやく出口側の門をくぐって抜けた先の道路に辿りついた頃には、あたりは暗くなりかけていた。
久しぶりに楽しい時間を過ごした、と歌仙は愉快な気持ちで通りを歩く。さて、この道はなんという通りなのだろう。
道の名を確認し、コートのポケットを片っ端から探って取り出したスマートフォンの画面をいろいろとタッチしてから、やっと道の名前を検索すると、自分が駅とは真逆の方向へ来てしまっていることに気づいた。
ここから近い別の駅を使うか、元の道に戻るか……。
しばらく考えた歌仙は、元の道を戻ることにした。ここから近い駅では、乗り換え回数が増える。……それに、元の道まで行くのに、またあのパサージュを通ることができる。今度は店を覗いたりする時間はないけれど。
引き返してふたたびパサージュの石の門を見つけ、元の道に戻るべくそこをくぐると、そこには無数のランプの光があふれていた。暗くなったので点けたのだろう。閉店している店も増えたが、ランプの優しい光が照らすパサージュは、先程とは違う趣がある。
やはり、元の駅に戻ることにして正解だったな。あの人混みも、さすがに解消されているだろう。
考えながら道を進む。足の裏になめらかなタイルの感触を感じながら、数刻前に入った店の前を歩く。ショーウィンドウの中のおもちゃ、手書きの張り紙、ガラス窓越しにうかがえる、閉店して暗くなった店内に浮かぶ家具のシルエット、コーヒーカップの跡のついたままのカフェのテーブル。
入り口の門にたどり着き、それをくぐろうとした歌仙は、ふと、右手に先程は気づかなかった店があることに気づいた。
ショーウィンドウ……というよりは、店の入り口のガラスの前にそのまま机を置いただけの場所に、いくつかのランプが無造作に置かれている。新しいものから古いものまで様々で、よく見るとそのどれもがきちんと修理されたものだ。
骨董店だろうか。商売人としての血が騒ぎ、店の看板を見上げると、そこには独特の筆記体のような書体で、
『Atelier de réparation Nikkari』
と書かれた看板が掲げられていた。
修理店……ニッカリ? 変な名前だが、ガラスを通して薄暗い店内をのぞくと、たくさんの古い品が置かれているのが見える。
こんな店を見落としていたとは。歌仙は帰ろうとしていたことをすっかり忘れ、まだ開いているだろうか、とその店のドアに手をかけて引いた。ドアの内側に掛けられていたベルがガランガランと大きな音を立て、開く。
照明の配置のせいだろうか。店内は思ったよりも明るく、思ったよりも置かれているものは少なかった。店主が手を入れたであろう、古いテーブルをつなぎ合わせただけの質素な長テーブルに商品が並べられ、そのひとつひとつに素朴な紙の値札がついている。置かれているものは何世紀年も前から使われているであろう骨董品も、比較的新しい電球を使ったものもごちゃまぜで、その多くがランプだった。ランプが好きなのだろうか。
店主不在の店のカウンターの後ろには二階へと続く階段があり、階段の上り口の向こうに続く廊下の奥に、部屋があるのが伺える。奥の部屋の扉は開いていて、時折たつ音が人の気配を感じさせる。おそらく、店主だろう。何も言ってこないということは、見ていていい、ということなのだろうか。
そう考えた歌仙は、店内に向き直り、テーブルに置かれた商品をひとつひとつ眺めはじめた。雑多に置かれているように見えたが、右の机は質素で堅実な、実用重視のつくりのもの、左の机は比較的華やかなデザインのもの、と分けられているようだ。壁に沿って作られた、ダークブラウンで統一された棚の中には、机のほうと違って所狭しと骨董品が並べられている。奥のものを見ようと、手前のものをそうっと手近な場所に置き、中をのぞく。
おや、これは……? いくつかの品を動かし、奥の方にあった目当てのガラスの花瓶を取り出すと、歌仙はそれを手で回転させながら慎重に眺め、最後に裏返してサインを探す。やはり、これはドーム社のものだ。かなりひどく割れたのだろう、金接ぎし、修繕してある。
どうして貴重なものなのにこんなに雑に置いておくんだ。
少し店主の神経を疑いつつ、元に戻して下の方の棚を点検しはじめる。頭の端でそろそろ帰らなくてはいけない時間だということを自覚しつつも、他にも掘り出し物があるのではないかと思うと、歌仙は探す手を止めることができないでいた。
奥にいる男の作業する音が聞こえる。たまに小声で何かつぶやく声が聞こえたかと思うと、また何かを削る音が聞こえる。その音を聞きながら、歌仙は棚の品を物色するのに夢中になっていた。上の方の棚から見ていた歌仙だが、今では床に近い段の棚まで辿り着いていた。棚の前にしゃがみこんで、ひとつひとつ取り出しては光に当てて眺め、またしまう。下の棚に手を入れた歌仙は、奥の角の方に置かれた変わった形のランプを探り当て、それを引っ張り出した。
比較的新しい時代に作られたであろう、アール・デコ風のものだ。まっすぐな格子模様の入ったガラスで光源が包み込まれ、細い金属を組み合わせて作られた、安定感と繊細さを併せ持った土台の上に乗っている。中は電球をはめ込めるようになっていて、ガラスの上に取り外しできる金属製のシェードが乗っている。このシェードにも細かい格子状の穴があいていて、そこから上の方向にも光が漏れ出るようになっている。
アール・デコの流れを汲んでいながらも、どこか異国の雰囲気を感じさせる品だ。おそらく、光を灯すと部屋中に格子の模様が浮かび上がるのだろう。
見たことのないスタイルのその品に感銘を受け、裏返し、目を皿のようにして軸をながめ、あげくにシェードの裏やランプの中まで覗いてみたものの、どこにもサインが無い。誰の作だろうか。知りたい。
顔をあげ、店の奥に向けて声をかけた。
「このアール・デコ風のランプ、良いものだね? サインは無いようだが……誰の作だい?」
少し待っていると、のそのそと店の奥から店主が出てくる。 ぶあつい防護ゴーグルと汚れたエプロンをかけ、さらにマスクまでしているもっさりとした怪しい見た目に、歌仙は一瞬、ぎくりとした。
面倒そうにこちらを見た彼は、歌仙が褒めたランプを見て、突然慌てたように、
「ちょ、ちょっと、そんな奥にしまってあるやつ触らないでよ」
と取り上げ、自分の脇に抱えてしまう。
「もう閉める時間だから、見たら出てってくれ」
言葉に棘はあるが、品物を扱う手は穏やかだ。やはり、店主なのだろう。男が抱えこんでしまったランプを見つめながら考える。あれは、売り物ではないのだろうか。是非、手に入れたいものだが。
あのランプは諦められないが、他にもいいものがあるかもしれない。こちらを警戒するように見る店主の視線を背中に感じながら隣の棚に移動し、怒られないよう上の方を見るふりをしていると、男がため息をついて元の部屋に戻っていく気配がした。
そうっと振り向いて、彼がいなくなったことを確認すると、歌仙は先程のランプがどこかに置かれていないだろうか、と店主のいたあたりを探す。しかし、あのランプを見つけることはできなかった。自室に持っていってしまったのだろう。
残念に思いながらも、棚の点検に戻る。棚の奥に再び目を引く品を見つけ、歌仙は手を伸ばした。
どれくらい時間が立ったのだろうか。夢中になって品物を眺めていた歌仙がコートの袖をまくり、時計を確かめると、とうに夕食の時間は過ぎ去っていた。
帰らなくては、と立ち上がり、金があればこのすばらしい品々をこんな質素な棚ではなく僕の棚に飾るのに、と名残惜しく思いつつも元の場所に戻す。
帰ろうとドアに向かった歌仙はさすがに長居をしてしまったし、店主にひと声かけてから帰ろう、と部屋の奥へ向き直った。廊下を進み、突き当たりの、扉の開いた部屋の中を覗き込むと先ほどの男が店に置かれているものよりもずいぶん頑丈そうな、たくさんの傷やしみがついた机の前に腰掛けていた。
彼の背後にある大きなスチールの棚に、先ほどのランプが置かれている。やはり、こうして生活の中に置いてあると、あのランプの魅力が引き立つ、と歌仙は考える。しかしどうせならば、あの無機質なスチール棚でなく、その隣の木製の、引き出しのついた棚の上に置けばいいのに。その方が、土台の金属に映える。
そんなことを考えつつ、男のほうに視線を戻す。机の上に固定した金属のパーツに覆いかぶさるようにしながら作業をしている。こちらには気づいていない様子だ。
先程の年齢を感じさせない言葉遣いを意外に思い、じっくりとその姿を観察すると、彼が最初に受けた印象よりも若いことに気づいた。自分と同じくらいだろうか。あの歩き方と纏った雰囲気のせいで、老けているように感じたのだろう。
自分でも修繕をする歌仙には、彼の仕事の、丁寧で無駄のないことがよくわかった。おそらく、あのパーツのサビを取る作業をしているのだろう。机に並べられた何本もの工具に代わる代わる手を伸ばし、作業を進めている様子は、見ていて飽きない。声をかけられずにその様子に見とれていると、突然、彼が顔をあげ、目が合った。ゴーグルの向こう側の目が、大きく見開く。
「……」
目を見開いてこちらを見たまま黙っているその男に、気まずい罪悪感を覚えながらも、何といっていいかわからず、ようやく
「あ、その……ド、ドアが開いていたものだから……すまない」
と、とりあえず口に出して言う。
「ドアが開いていたからって、勝手に人の部屋を覗き込むなんて、感心しないね」
きつい口調でなじられうつむくと、足の先に小さな金属のかけらが落ちているのに気づいた。その金属片をつま先でいじりながらもう一度謝る。
椅子を引く音に気づいて顔をあげると、彼の鼻先を男の細く結った長い髪がかすめていった。彼が通り過ぎると、部屋に漂っていたかすかな酸のにおいが打ち消され、木のような香りがあとに残った。ふわりとなびくその髪のあとについて、廊下を歩く。
店のドアにたどり着くと男はドアを開け、歌仙を外へ促した。帰れ、ということだろう。名残惜しいが、仕方がない。
ドアの向こうの冷たい空気を吸い込むと、あのランプのことが脳裏をよぎる。作者くらい教えてくれたっていいだろうに。
「また来てもいいかい?」
なんとなく、口をついて言葉が出る。
「……勝手にしなよ」
律儀に答える店主に好感を覚える。やはり、根はいい奴なのだろう。
「ありがとう。また来るよ。……僕は歌仙。歌仙兼定。君は?」
少し興味が湧いて、尋ねる。
「アオエ」
むすっとした仏頂面で答える様子が可笑しい。
「ありがとう、アオエ。良い店だ」
店を出ると、懐かしいあの石の門が見える。
また来よう。そう決めつつ門をくぐると、見慣れた通りに出る。
振り返り、錆びたパサージュの看板を一瞥すると、歌仙は駅へと歩き出した。

2章

ガルニエ宮の上で、朝の日差しに照らされた一対の天使像がきらりと反射し、街の隅々まで光を分散させる。周囲の家々を構成する高い壁で囲まれた、ごつごつとした石畳の路地がまっすぐと続き、建物のわずかな隙間から細く光が差し込んでいる。光の一筋が、その黄金色の目の内側を透過させ、青江は目を細めた。
どこかの建物の内側で鳴るピアノの音が壁を伝い、その振動を鈍らせながら耳へと届く。塀と塀との隙間にときおり控えめな庭がのぞき、鬱蒼と茂る雑多な草木の中に咲く小さなバラの花が、単調な風景の中でその色彩を浮かび上がらせている。
大通りとは違い、このあたりの道は静かだ。街中にあふれる、大きな荷物をガラガラと引いた観光客もほとんど見ない。
右腕に大きな紙袋、左の腕に紙を巻かれたいくつものバゲット、という大荷物を抱え歩いていると、左手にぽっかりと開いた石の門が見えてくる。青江がいつも見ている門とは逆に位置する門だ。向こう側とはまったく同じ造りになっているはずなのに、あちらの門に比べると少し素朴な雰囲気を醸し出している。
門をくぐり、長い通りを歩いてようやく逆側の門付近まで来ると、青江は自分の店には向かわず、その向かいにあるカフェの扉をノックした。待っていても中から人がやってくる気配を感じられず、もう一度ノックして光を反射しているドアのガラスに額をくっつけて電気の消えた暗い店内を覗き込む。ようやく奥からパタパタと小さい足音が聞こえてきて、背丈の小さな少年が扉を開いてくれる。
「兄さん、まだ寝てる」
薄暗いままの室内に案内してくれた少年には、兄がふたりいる。一番上の兄は菓子職人で、ふだんは別に住んでいる。たまに訪れてくるらしく、この少年と仲良さそうに話している様子を週に1度くらい、見ることができる。どこか大通り沿いに店を構えているそうで、結構な人気店のようだ。
この店に並ぶ菓子は全て彼の店のもので、毎朝配達されてくるらしい。ここで彼の菓子が買えることはあまり知られておらず、知る人ぞ知る店なのだ、と以前菓子を買いに来た常連客のひとりが話してくれた。
この小さな彼が寝ている、と言ったのは真ん中の兄のことで、彼がこの店の店主だ。僕は週に 度、店で使う食材を買い出しに行くのだけれど、(どうして僕が買い出しに行くことになったのか、僕は覚えていない。気づいたら、なんだかそういうことになっていたのだ)朝は弱いらしくいつもこの弟が扉を開けてくれる。
カウンターの上に野菜、ハム、卵、チーズ、パンの順に食材を並べていると、奥へ行っていた少年が財布を抱えて戻ってくる。
「はい、これ。お金。いつもありがとう」
「うん、どういたしまして、小夜くん。そうだ、これ。パン屋でおまけでくれたからどうぞ」
コートのポケットから小さな四角いチョコレートを取り出して彼に渡すと、目を輝かせて、いいの? とたずねるようにこちらを見つめ、青江がうなづくと包み紙を剥いてそれをひとくちにほおばった。
小夜、というのはこの少年の名前だ。チョコレートは彼の好物であるらしく、恰幅の良いパン屋の店主が彼にやれ、とたまに付けてくれるのをありがたく貰ってきて渡している。
じゃ、宗三くんに「よろしくね」と声をかけ、だいぶ中身の少なくなった紙袋の口を閉じ、自分の分のバゲットを手に持って店を出ようとしたちょうどその時、ドア越しに向かいの自分の店を覗き込んでいる人の姿が見えた。
――珍しいな、こんな時間に。
店を出て、後ろから「何か用かい?」と声をかけると驚いたのか、2、3歩後ずさる。
「あ……きみ……アオエ、だったよね? 覚えているかい、カセンだ。君に渡したいものがあって」
目をぱちぱちさせながらそう言った男の顔をまじまじと見る。こんな男、知り合いにいただろうか。
「ほ、ほら、この間、君の工房を覗いて迷惑をかけてしまっただろう? そのお詫びに、と思って」
眉間にしわをよせたときの目つきが悪かったのだろうか。目を横へそらしながらそう言われ、ようやくあのときの男か、と思い至った。
「入りなよ」
胸ポケットからとりだした鍵を差し込んで回し、立て付けの悪い木の扉をぐいと引っ張って開けると、戸に掛けられたベルがやかましい音を立てる。扉を抑えて中に促すと、その紫の髪の男は頭の上のぴんと立った毛を風になびかせながら中へ入った。
青江は持っていた荷物をカウンターに置くと彼を店に残し、廊下の奥の作業部屋の前を通って炊事部屋へ入った。水を入れたヤカンを火にかけ、木製の小さなまな板と包丁を取ると店へと戻り、男の座っているカウンターの椅子の前で買ってきた焼き立てのバゲットを切り分け、食べるかい?  と尋ねる。うなづいた彼を見て、ふた切れ余分に切る。
置きっぱなしにしていた紙袋の底からチーズの塊をとりだし、包丁で掬ってパンの上に乗せる。汚れた包丁を持って部屋へ戻り、今度は右手にカップ2つと豆を入れたフレンチプレス、左手にヤカンを持って店に戻る。
フレンチプレスに湯を注ぎ、コーヒーの出るのを待つ間に、バゲットをひと切れ渡し、自分の分を取ってかじり始める。無音の店内に、カリカリとパンをかじる音が鳴る。コーヒーの出た頃合いを見てプレス機を押し下げ、コーヒーを注いだカップのうちひとつを彼に渡す。パンをかじる音の中に、時折コーヒーをすする音が混じる。
バケット4切れをすっかり平らげてしまったふたりは、残りのコーヒーを飲みながら、暗いままの店内のカウンターの椅子から、明るい外の様子を眺めていた。向かいのカフェの電気が点き、中で店主が動く様子が見える。

「それで、何をもってきたんだい?」
隣に座る男に聞くと、ああ、そうだった、と持ってきた大きな革の鞄を床から取り上げ、その中から大きめの箱を取り出す。
「これ、仕掛けは壊れてしまっていて動かないし、もうずっと引き取り手もいないのだけど、良いものだから処分してしまうのも惜しくて、ずっと持っていたんだ。君にあげるよ。君なら直せるだろう? 良かったら店に並べてくれ」
箱から出てきたのは、金属製の小さな鳥籠だった。籠の細い金属は装飾的な曲線を描いており、土台には彫り細工が施されている。機械の入っている部分には細かな絵が描かれていて、横のスイッチを押すと中に生えた小さな木にとまった鳥たちが互いにさえずりあう仕掛けとなっている。
「……良いものじゃないか。もらえないよ、こんなもの」
よく見ると籠部分の金属が欠けているが、かなり手の込んだ作りだ。完全な品なら、数十万はするだろう。壊れていても、数万は下らないはずだ。
「19世紀のあたりに作られたシンギング・バードケージだ。土台に絵が付けられているものは珍しいだろう?」
覗き込んで、頼んでもいない説明を始める。詳しいんだねぇ、と呟くと褒められたと受け取ったらしく、紫の髪のてっぺんでふわりと立つ一房の毛をふふん、と自慢げに揺らす。
「僕は骨董商をしているから、目利きの腕は立つのさ」
嬉しそうに話す歌仙を横目に、青江はその品に視線を戻した。
ひと通り眺め、壊れている部分を確認すると、商売柄どう修理するかということを考えはじめてしまう。籠部分の細工の欠損部分を撫でながらしばらく考えにふけっていた青江は、自分の顔をじっと覗き込んでいる歌仙に気づき、我に返った。
「やっぱりもらえないよ」
もう一度返そうとした青江の腕の中に箱を押し付け、
「僕が持っていても、壊れたままだから」
いつの間にかコートを羽織っていた男は、そのまま鞄を抱えて店のドアへ向かってしまう。
「待って、じゃ、どれでもいいから店のもの、ひとつ持っていきなよ」
声をかけられて例の頭の上の目立つ毛をゆらゆらとさせながらぱっとこちらを振り向き、ちらりと店の棚を盗み見て、少し迷った様子を見せた。そして、思い直したように床に視線を戻す。
「いいんだ、そんなつもりで持ってきたんじゃないんだ。そうだ、それ、直したら動いているところ見せてよ、それでいいからさ」
男は床から頑なに目をそらさないようにしている。
「それじゃ、朝食ありがとう」
急ぐように店を出ようとする男に声をかける。
「カセン、また来なよ。今度はもう少しましな食事、ご馳走するから」
振り向いた歌仙は少し驚いたように目を見開いた後ほどけるように微笑み、また来るよ、と言葉を残して店を出ていった。

鐘の音が鳴り、店に入ってくる歌仙は、珍しくカウンターに座って作業をしていた青江と目があった。
「やあ、アオエ。おじゃまするよ。通りがかったから来たんだ。このあいだ、食事おごってくれるって言っただろう?  ランチでもどうかと思ってね」
朝からずっと書類を作っていた青江も、そろそろどこかへ出かけたい気分だったが、なんだかいつも突然現れるこの男のペースに乗せられているのが癪で、少し考える。突然現れて、骨董を押し付けたり。突然現れて、ランチを奢れと言ったり。どうしてこう、僕の周りにいるのは自由気ままな男ばかりなのだろう。
「……忙しいのかい?」
すまなそうに、というよりは残念そうに言う男の姿を見ていると可笑しくなってしまう。
「いや、大丈夫。行こう。近くに良く行く所があるから、そこでいいかい?」
「ああ」
さっきまでしょんぼりしていたのに、途端に顔をにこにこさせている。素直な男だ、と思いながら青江は内心、歌仙のことが気に入りはじめていた。立ち上がり、ううん、と伸びをして、すっかり固まってしまった腰を伸ばす。
「あっちの通りだ」
コートを羽織って店を出ると、石の門を背にパサージュの中を歩き始める。
隣で歩く歌仙は、周りをぐるぐると見ながらあの窓の形はどうたら、とか、柱の形がどう、とか、興奮気味に説明しながら歩いている。本当に古いものが好きなのだな、と思いそう言うと、古いものじゃなくて、美しいものが好きなのさ、と言い返してうっとりと天井窓を見つめる。
「ここは美しいね、こんなところに住めたらなぁ」
君はここに住んでいるんだっけ、と歌仙が尋ねる。
住んでいるよ、もうずっとね、と青江は答える。
「でも、パリの街だって充分美しいじゃないか。華やかだし」
言われた歌仙はううん、と考え込んでから、ゆっくりと話し始めた。
「そうだね、街も、美しいけど……ここは、時間が切り離された、感じがするから」
時間なんてどこも同じだろう、と思いながら歌仙の方を見ると、何かを深く考え込んでいるような顔をして黙り込んでいた。その横顔にどこか影が差しているような気がして、どうにかその正体がわからないだろうか、とじっと見つめる。どこにでもいる人間が、皆そうであるように、いつも楽しげに振舞っているこの男の中にも憂いはあるのだろう。それを知りたいと、少し思う。そう思うのは何故なのだろう。
黙って歩いているうちに、石門を通り抜け、裏の路地に出る。右に曲がって、こっちだ、と小さな店に入ると、店の主から声をかけられた。
「いらっしゃい」
歌仙が寡黙な店主に今日のメニューはなんだい、と聞くと、彼は黙って壁の黒板を指差した。黒板には3つの料理の名前が書かれている。あの中から選べ、ということだろう。
しばらく考えて歌仙が仔牛のステーキを頼むと、僕は鴨のコンフィで、と青江も店主に声を掛けて注文する。
「直ったかい?」
注文を終え、通されたテーブルに座って落ち着いていると、歌仙が沈黙を破った。
「ん? ああ、あのバードケージかい? ううん、なかなか苦戦しててね。中の機械の作りが少し変わってるみたいだ。いくつか、探してこなくちゃいけない部品もあるし」
こういう作りになっていて、こういう部品が必要なのだ、と、青江はシャツの胸ポケットから取り出したリングノートに図を書いて説明する。真剣な顔で歌仙もノートをじっと覗き込む。図を書き終え、籠の部分はあと少しなんだ、と言って水を飲む。置いたグラスの中でかすかな音を立てて泡が弾ける。
「すごいな、僕も前に開けてはみたんだけど、機械の修理は苦手でね」
僕の得意分野は、やっぱり目利きのほうさ、と楽しそうに話し始める。
一度話し出すと止まらない歌仙の骨董の話に相槌を打っていると、料理の盛られた皿を左腕にふたつ乗せ、右手にグラスとワインのボトルを持って店主がやってくる。
器用にボトルとグラスを机に置き、それぞれの前に肉の乗った大きな皿を置くと、何も言わずに奥へと戻ってしまう。青江の肉の横には山盛りのシュークルートとフライ、歌仙の肉の横には青江の皿のものよりもさらに大量のフライが盛られている。
ワインなんて頼んだかい? と小声で尋ねる歌仙に、あの店主、肉料理にはワインって決めてるらしくて、頼まなくても持ってくるんだ、と声をひそめて答える。安いからいいんだけどね、おいしいし、と付け加える。なら頂こうかな、と歌仙は自分のグラスにワインを注いで、飲み始める。
「それで、骨董屋のほうはうまくいってるのかい?」
気軽な世間話のつもりで、鴨の切れ端とフライを一緒くたにフォークに刺し、口に運びながら尋ねると、ご機嫌でグラスを傾けていた歌仙ははっとしたように黙り込んでしまった。
「あまり、うまくいってないんだ。店舗も手放してしまったし」
やっと口を開いた歌仙はナイフで切り離したままの肉をフォークの先でぼんやりと弄りながら、そう口にする。さきほど垣間見えた歌仙の憂いの原因は、このことだったのだろうか。
そっか、と黙り込んでしまった青江を気遣うかのように、歌仙が話題を変える。
「そういえば、君の店の前にもカフェ、あるだろう? あそこにも行ってみようと思ってたんだ」
ああ、あの店ね、と相槌を打つ。
「あの店、僕が貸してるんだ。あの店のある建物と、僕のとこと、その横が僕の持ち物でさ」
歌仙と話していると話が弾み、つい尋ねられてもいない余計なことを口に出してしまう。
「えっきみ、結構お金持ちじゃないか」
思わず出した大きな声に、隣のテーブルの客が咎めるようにちらと歌仙を見る。
「あ、うん……、僕のお祖母さんがフランスのお金持ちの商家のお嬢様だったらからさ。……遺産分けでもらっただけだよ」
鴨の骨についた肉をナイフでこそげ落とし、口ごもりながらそう言うと、
「ふうん、君の店、あんまり繁盛してるように見えないものね」
と、ぐさりとくる言葉を返してくる。
抗議しようとテーブルの向こうの相手を見ると、皿を見つめる目を細め、口元に笑みを浮かべながら、僕は君の店、好きだけどね、と歌仙は続けた。
そう言われては文句を言えず、抗議の言葉を引っ込めてテーブルクロスについてしまったソースを拭き取り、ありがとう、とぼそりと声に出す。

「そうだ、今度は僕がご馳走するよ、そこのカフェにも行きたいし。また来てもいいだろう?」
店を出て、入り口側の門の前まで戻り、それじゃあ、と別れた青江が店に入ろうとしたその背中に声がかけられる。
開いたドアを手に持ったまま、笑いかける。
「うん、また来てよ。さっき話した置き時計も、今度見せるから」
置き時計とはレストランで歌仙に話した、昨日修理を依頼された品だ。欠けてしまったパーツが多く、品物を見ながら新しく図面を引いて直す、という話に歌仙が興味を示したのだった。
青江の笑顔を見て、嬉しそうに去っていく歌仙を見送り、青江は店に入った。

「アオエ!」
真っ赤な貸自転車を返そうと、街角の自転車返却機にカードを差し込んでいると、聞き覚えのある声に呼ばれる。
見回し、道を渡ってこちらに来ようとしている男を見つけて、カセン、と声をかける。
「何しに来たんだい?」
嫌味なくそう尋ねる歌仙を、まるで君の家にお邪魔したような口ぶりだね、と茶化すと、
「僕はこのあたりに住んでいるから」
と、顔を赤くする。
「そこの美術館で修復関係のセミナーがあって、それで来たんだ」
知り合いが出るんだ、僕も話してくれって言われたけど、あんまり人前で話すのは得意じゃないから。そう歌仙に説明すると、この間僕に話してくれたみたいにすればいいのに、と本当に残念そうな顔をする。
話が途切れ、沈黙が漂う。立ち去ろうとしない歌仙に、試しに声をかけてみる。
「君も一緒にいくかい?」
途端に顔をほころばせ、「ここはルーブルみたいに有名ではないけれど、コレクションはなかなか良いんだ。時間があるなら少し見ないか?」と興奮気味に早口で言う。美術品の話を振った時のカセンは本当に面白いと思いながら、時間ならあるから見ようよ、と答える。

美術館に入るやいなや、ここは初めてかい? マネの珍しい作風の絵画があって云々、と話し始める歌仙の話を聞きながらチケットを買い、展示室へと向かう途中にある扉の前に立てかけられたセミナーの看板を流し目に見る。まだ誰も来ていないようで、開いたドアの内側に人影は見えない。
歩いている間にも歌仙の話は止まらない。最初の展示室の右端の絵がどうだとか、次の展示室に飾られている陶器のうち真ん中のものが自分のお気に入りなのだとか、ずっと話している。本当に気に入っているのだろう。ずっと話していて疲れないのかとも思うが、彼の楽しそうに話す姿を見ていると、自分も楽しくなってくる。柄にもなく、この品物はここが修復されている、だとか、あの絵は何年にあそこが修復されたんだ、オリジナルの部分と比べると絵の具の色が違うだろう、だとか色々としゃべってしまう。
「君は修理の話ばかりするねぇ、それで、好きな絵はどれなんだい?」
油絵の展示室の真ん中に作り付けられた木の長椅子で休憩していると、青江はそう尋ねられた。
そうだねぇ、と考えこむ横顔に、歌仙が期待に満ちた眼差しを向ける。
「あの絵が好きかな」
歌仙を挟んで向こう側にある、壁に貼られた絵を指差す。円と三角形と四角形が並べられた、抽象的な絵画だ。
「あれかい! カンディンスキーだね、君は抽象画が好きなのかい? 僕も抽象画は好きさ、カンディンスキーのものならあの絵よりも、ポンピドゥー・センターにあるやつのほうが好きだけれど。抽象画か……ロスコもいいよね、彼の絵からは強さと静謐さを同時に感じるんだ、不思議だよ。そうだ、ピカソも好きだよ、力強くて、生命を感じる。生命を感じるといえば、マティスも好きだ。あの有名な金魚の絵、あるだろう? あれが好きさ。色鮮やかで、大胆で……でも落ち着きがあって」
壁に飾られた絵を眺めながら一息でそう言い切る歌仙の声を半ばバックミュージックのように聞きながら、青江は自分と歌仙の座っている位置の間に彫られた小さな落書きを指でいじっていた。カッターナイフかなにかで彫られたのだろう、いびつなハート型の中に、平凡なふたつの名前が掘られ、下に日付が書いてある。
これが僕の名前だったら、風変わりな名前に見えるのだろうな、と考える。そういえばカセンというのも変わった名前だな、と思い当たって尋ねる。
「そういえば、君、変わった名前だよね、どこの国の名前なんだい?」
歌仙は突然関係のない話を始めた青江のほうを振り向き、自分の話を聞いていたのか、と怪訝な顔をした。
「僕のお爺さんが、日本からの移民でね。日本のワカが好きだったから、それにちなんだミドル・ネームを付けてくれたんだ。僕はその名前が気に入ってるから、そう名乗っているんだ」
胸ポケットから取り出した手帳に何やら書き付けてこちらへ向ける。『歌仙』と少しゆがんだ漢字が書かれたその手帳を持って自慢げにこちらを見てくる歌仙の、どうだい、という風な顔を見て、へえ、なかなか上手いじゃないか、と褒めつつ歌仙の手から手帳と鉛筆を取り上げ、『歌仙』と書かれた文字の隣に『青江』と漢字で書く。
「なんだい、これ? これもカンジかい?」と尋ねる歌仙に、それは自分の名前だ、と答える。
「僕は日本で生まれたからね、青江は日本の名前なんだ」と説明すると、目を輝かせて「君の名前もニホンゴだったのかい? カンジには意味があるんだろう?」
と身を乗り出して聞いてくる。自分の名前の意味など、考えたこともなかった青江は少し考えて、「青い……海のことかな?」と答える。
「へぇ、 La mer bleue か。いい名前じゃないか、青江」
歌仙が自分の名前を、意味を伴って発音してくれたことが嬉しくて、くすぐったい気持ちになる。熱くなる頰から意識を逸らすように時計に目をやり、そろそろ行かなくちゃ、と立ち上がると、まだ手帳の文字を指の腹で撫でていた歌仙は、もうそんな時間かい、と残念そうに顔をあげる。

「また行くよ、君の店。……食事もご馳走しないといけないしね」
入り口に戻ると、さっきまで人のいなかった受付に人がごった返していて、その中に見知った顔がちらほらと見える。挨拶されて会釈を返している青江に、先に行ってしまった歌仙が人混み越しに言う。
去ろうとする背中に、待ってるよ、と声をかけるとこちらを振り向いて手をふり、歌仙は外の光の中へ消えていった。

夕食を食べながら青江が図面に書き込みをしていると、玄関の方でガランガラン、と大きな音が鳴り、「いるかい?  青江?」と聞き慣れた声がする。作業部屋の椅子から「いるよ、入ってきなよ」と大声をあげ、しばらくすると大きな足音と共に作業場のドアがバタン、と音を立てて開き、音の主が入ってきた。
「やあ! 青……何食べてるんだい」入ってくるなり眉間にしわを寄せ、歌仙が尋ねる。
「何って……パンだけど?」 答えると、眉を釣り上げて歌仙が返す。
「夕食にパンだけかい? いやそれより、その赤いのはなんだ」
「何って……ケチャップだよ。歌仙くんも食べるかい?」
はあああ、と大きなため息をついて、呆れたような声で歌仙が言う。
「それは見れば分かるさ。……ああ、もう。なんだい、そのパンにケチャップを塗った代物は」
「だって君がこの間野菜も食べろって……言ったから……」
苛立ったように頭を振る歌仙の抱える、大きくふくらんだ袋の上から覗いたラディッシュの葉が、歌仙の頭が動くたびにその動きに逆らって揺れている。
「はぁ、きみねぇ。なんのためにフランスに生まれたと思ってるんだい」
「いや、別に生まれはフランスじゃないんだ……けど……」
歌仙の勢いに気圧され、戸惑いつつ答えると、堪忍袋の緒が切れた、というふうに歌仙は抱えていた大きな袋をどん、と散らかった机の端に置いた。
「食材を買ってきて良かったよ。ディナーの約束、していただろう。その不味そうなパンを置いて、手伝ってくれ」
次々と袋から食材を取り出していく歌仙に、炊事部屋はこっちだよ、と慌てて隣の部屋を案内する。戸棚を開けて調理器具を一通り見たあと、良いものが揃っているじゃないか、と大きなフライパンを手に取り、そのフライパンに顔を突っ込んで見定め、底が錆びている、と責めるようにこちらを睨みつける。直しとくから、となだめて錆びていない小さなフライパンを渡すと、まあこれでもいいか、と独り言を言って包丁を手に取り、慣れた手つきで野菜を剥き始める。きみも手伝ってくれ、とこちらに投げ渡されたじゃがいもをキャッチし、青江も机の上で剥きはじめた。
「いつもあんな夕食を食べているのかい、体に悪いぞ」
野菜を剥きながら歌仙がこちらを叱りつけてくる。たまに宗三くんのところでサンドイッチとかも食べてるよ。買い出しのお礼に、って奢ってくれるんだ。と言い訳のようにした返答は、あまり彼の気には食わなかったらしく、不満げに鼻を鳴らした。
「こんな立派なキッチンがあるんだから、料理くらいすればいいのに。僕のアパートのキッチンなんか、これの4分の1も無いんだぞ!」
それをきっかけにスイッチが入ってしまったようで、歌仙は溢れる不満を口にしながら、もりもりと野菜を剥いていく。アパートの水道が壊れて呼んだ修理人が文句ばかり言って全然仕事をしないこと、付き合いのある仲買人の態度が悪いこと、野菜の値段が高いこと、自分の店の商品は適正な値段を付けているのに値切られること、仏頂面の銀行員が金を貸してくれないこと。
「なんだい、僕の店に出資する価値なんてないっていうのかい!」
そう叫んでまな板をも叩き割りそうな勢いで肉ぶつ切りにしていくのを、はらはらしながら横目で見つつ、「そうだねぇ」と、何度目かわからない相槌を打つ。
「青江もそう思うだろう?!」
バン!と音を立てながら包丁を打ち付け、勢いで小さく切られた肉が跳ねる。
「うん」と答える青江の顔が先ほどよりも多少げっそりして青ざめているのに気付いたのか、おや、僕としたことが少し熱くなってしまったよ、と鍋にオリーブオイルを敷いて火にかけ、カットした材料を手際よく炒めていく。先ほどとは違う鮮やかな手つきを吸い寄せられるように見つめていると、青江、ジャガイモをくれ、と鍋を見つめたままの歌仙が言う。青江がジャガイモを渡すと、代わりに洗ったレタスとカブ、ルッコラの入ったざるを渡され、これをサラダ用にちぎっておいてくれ、と頼まれる。言われたとおりサラダをちぎっていると、小さなフライパンからガーリックの香りがたちのぼり、先ほどの肉が焼かれる。サラダを皿に盛っていると、肉が良い色に焼かれ、それと同時にスープの火が止められる。青江の用意しておいた皿にそれらを慎重に盛り付け、うん、良い具合に出来たね、食べよう、と皿を持ってテーブルに移動しようとした歌仙の足がぴたりと止まる。
「このテーブル、小さすぎないか? 皿が乗らないじゃないか」文句を言ってくる歌仙に、一人用だからね、と返すと、仕方ないな、と皿を持ったまま廊下に出ようとする。どこへ行くんだい? と聞くと、店のほうさ、あのカウンターで食べるしかないだろう、と話も聞かず出ていってしまう。まあそうだな、と二人分のフォークとナイフ、床に置きっぱなしにしてあった白ワインのボトルとグラスを持って、彼の後を追う。
もうひと往復して料理を運び、皿でいっぱいになったカウンターを眺めて思わず、立派だねぇ、と声に出すと、そうだろう、と歌仙が誇らしげに微笑む。脇に添えられた小さな皿の上に、さきほどの食べかけのパンが置かれている。
「じゃ、頂こうかな」
そう言って、熱々のスープをすする。適当な大きさに切られた野菜の甘さと、トマトの旨味が混ざりあい、美味しい。
「これ、美味しいよ、歌仙くん」
驚いて感心したように言う青江に、そうだろう? こっちの肉も食べてくれ、このソース、僕の家の伝統のソースなんだ、美味しいんだよ、と勧めてくる。勧められるままに肉をほおばり、続けてジャガイモを揚げただけの素朴なフライを口に入れる。塩が控えめでありながら、肉の味を引き立たせるソースが絡まり、なんとも言えない、安心感のある美味しさを作り上げている。ほおばったまま目を輝かせ、思わず歌仙のほうを見ると、そうだろう? と歌仙も目で語ってくる。
あっという間に料理を平らげたふたりは、ライトで照らされた夜のパサージュのタイルを眺めながら空の皿を前に一息ついていた。こんなちゃんとしたディナーを食べたのはいつぶりだろう。
「ふう、お腹いっぱいだよ」
満足気に呟いた青江に、
「デザートはいらないのかい?」と歌仙が訪ねる。
「デザート?」と聞くと、「買ってきたんだよ、デザート」と立ち上がり、いつの間に入れたのか、冷蔵庫を開けてケーキをふたつ取り出す。
正直なところもうお腹がいっぱいだったが、このケーキは僕のお気に入りの店のものでね、旬の果物のいいものだけを使っているから云々、と話す歌仙の言葉を聞いていると、食べなくちゃ悪いかな、という気がしてきて、よし、食べようよ。コーヒー、入れるからさ。と決心して立ち上がり、食器を片付ける。
コーヒーの準備をしている間に手際よく食器を洗ってしまった歌仙が棚を漁り、奥のほうから絵のついた薄い皿を取り出しながら、そういえばここ、食器は良いものがそろっているよね、机は無いのに、と不思議そうに言う。
「ここ、元は僕のおばあさんのカフェだったからね。絵皿は大方、宗三くんに譲っちゃったけど」
コーヒーが入り、それぞれのとケーキの皿を持ってカウンターへ戻る。
たっぷりのフランボワーズが乗った大きなケーキにフォークを入れて口に運び、美味しいね、と歌仙のほうを向くと、すでにケーキを3分の1ほど平らげてしまっている歌仙がそうだろう、と幸せそうな顔をこちらに向ける。もう少しお腹に余裕があれば、もっと美味しかったんだろうけど、と思いながらなんとかケーキをたいらげ、コーヒーを流し込む。
「あー、歌仙くん、僕もう何も入らないよ」
椅子の上でひっくり返り、そう声に出した青江を見て満足してもらえたようで嬉しいよ、と呆れたように笑みを浮かべる。
「……ねえ、また君と食事しに、ここに来ても良いかい?」
すこししんみりとした夜の空気の中で、歌仙がそう尋ねる。いいよ、また来てよ。青江がそう返すと、目を伏せたまま歌仙が微笑みを浮かべる。部屋が薄暗いせいではっきりとしないが、その頬がワインの酔いで少し紅く染まっているような気がする。

それ以来、歌仙は度々食事を共にするため、訪ねてくるようになった。一週間訪ねて来ないときもあれば、毎日のように訪ねて来るときもある。朝訪ねてくるかと思えば、夜遅くに夜食でもどうだい、と訪ねてくることもある。いつも訪ねてくるのは歌仙の方で、いつも僕は歌仙を迎え入れる方だった。

僕たちは会うたび、いろいろな話をした。最近行ったレストランのこと、最近扱った品物のこと、日々あった楽しいこと、悲しかったこと、頭にきたこと。テレビ番組や映画の話、どうでもいいような馬鹿話、自分の店のこと。くるくると表情を変えながらとめどなく話す歌仙につられるように、青江もたくさんのことを彼に話す。

歌仙が行きたい、と言っていたので、宗三のカフェにも行った。はじめて誰かを連れて来ましたね、と宗三が驚いて僕のことを本当に僕であるか確かめるように上から下までじろじろと見るので居心地悪く目をそらしていると、置いてあった菓子を見つけた歌仙が、
「これ、パティスリー・コウセツの菓子じゃないか! 見ろ、青江! ほとんど買えないガレットまである!」と興奮し始める。
「ああうん、コウセツさんは彼のお兄さんなんだ」
青江が宗三のほうを指すと、「なんだと……! 君! 詳しく聞かせてくれないかい」と彼のほうへ向かって行って、宗三に恨みがましい目でじっと睨まれる。
ひと通り菓子を味わい、ひとまず落ち着いた歌仙と話していると、「あなた、そんな話せたんですねぇ」と宗三に呆れられる。
「青江はいつもこんな感じだろう?」
「はあ……? そうでもないんですけどね」
宗三のいつもの口調を聞きながら、青江は指摘されたことについて考えた。僕は、そんなに歌仙と話しているのだろうか。
歌仙と話すのが、楽しいのは事実だ。歌仙の語る話の中の人物が、自分の周りにいるように生き生きと身近に感じられる。歌仙の話を聞いて、前に遭遇した出来事を思い出し、そのことについて話すと歌仙がその言葉だけでなく、その目で、その表情で心地よい反応を返してくれる。使う言葉の端々から、その反応の端々から歌仙という人間が強く、あたたかな心を持っていることが伺え、彼になら何を話しても大丈夫だという安心感を与えてくれる。
歌仙と過ごす時間は楽しくて、いつもすぐに過ぎていってしまうのだ。そうして帰る時間になると、歌仙はいつも別れ際に「また来るよ」とこちらへ言って、門の向こうへ去っていくのだった。

「その眼、見え方は違うのかい?」
青江と歌仙はすっかりお馴染みとなった、店のカウンターでの夕食を楽しみ、食後のぼんやりとした時間を過ごしていた。
穏やかな沈黙を破った突然の問いかけに、へ? と間の抜けた返事を返してしまう。
前から気になっていたんだ、左右の目の色、違うだろう、と言って歌仙は片側の目の上にかけられた青江の前髪をどかし、親指で目の縁をなぞった。
「オッドアイか。ミヤビじゃないか」
美術品でも見るかのように近づいたり遠ざかったりして眺め、そう口に出した歌仙を前に、青江は『ミヤビ』とはなんだろう、と考える。歌仙に触れられた部分が熱いような気がして、落ち着かない。その変わった音を持つ形容詞を探してしばらくいろいろと思い浮かべたのちに、ようやくそれが日本語の『雅』ではないか、と見当をつける。
でも雅というのはこういうものを表現するための形容詞だっただろうか? 考えこむ青江をよそに、歌仙は話を続ける。
「なぜ隠してしまうんだい? 綺麗なのに」
見られていることが少し恥ずかしくなって、やめてよ、と歌仙の手首を押し返してどかす。
「じろじろ見られるから。嫌なんだ」
テーブルの上の食器に残されたトマトの皮をフォークの先でいじりながら答える。
目をあげると、こちらをじっと見つめる歌仙と目があう。ふむ、と残念そうに鼻を鳴らすと、ひと呼吸おいてまた話し出す。
「君の目は、偶然出会った現実として受け入れるには珍しすぎる。そういったものは、この現実の中では異質だから、皆自分の目の方を疑ってしまうんだ」
だからみんな見るのさ。そう言って歌仙が青江の方に少し頭を寄せると、色素の薄い髪が動きに逆らって風を含む。
「例えばあの道の真ん中に突然立派な角を生やした雄ジカが歩いていたとしたら、君はその光景を信じるかい? それとも自分の目の方を疑う?」
窓の向こうの通りを指して、気取った風にそう問いかける歌仙の顔を見つめていると、その翡翠色の目の奥で花のような模様を描いた瞳孔がふわりと広がる。
歌仙の指差した道の向こうから微かに車の走り去る音がする。
「そういうものなのかな」
頬杖をついて道を足早に通り過ぎていく人のシルエットを眺めながら、雄ジカのひずめの音を想像した。もし、そういう光景を見たら、歌仙はどんな反応を見せるのだろうか。
きっと、喜ぶのだろう。興奮したときの少し高い、早口な声で、「見ろ、青江! 鹿だ!」と叫ぶのだろう。考えていると、話は終わった、というふうに歌仙がカチャカチャと皿を重ね合わせ始めていた。
彼にはそういうところがある。何に対しても自分のペースでものごとを動かすのだ。歌仙といると、彼のリズムが自分をも動かして行く。青江はこの友人に巻き込まれて進んで行くその時間を気に入っていた。
待ってよ、と机の上に置きっぱなしにしていたふきんでテーブルを拭き、椅子を元の位置へ戻していると食器カチャカチャと洗い始める音がする。
歌仙が洗った食器を、ほら、と言ってこちらに渡してくる。吊り下げてある新しいふきんを取って、それで食器を拭いていく。まじめに食器を拭くふりをしながら、腕まくりして、食器をどんどん洗っていく歌仙の二の腕の筋肉を盗み見る。
あのたくましく太い腕が、重たくて大きな骨董を軽々と持ち上げるところを想像する。僕だってそこそこ、鍛えているつもりだけど、と自分の腕の太さと比べ、自信を無くしていると、歌仙が洗った食器をどんどん積み重ね、「遅いぞ、青江」と文句を言う。
こちらを向いた歌仙の襟のあたりにに洗剤が飛んでいるのに気づき、ふきんを持った手を伸ばすと、何するんだ、というふうに歌仙が身を引く。少し焦ったようすのその姿を笑い、洗剤がついてるから、とそれを拭ってやると、目をぱちぱち瞬かせて、ああ、ありがとう、と心ここにあらず、といったようすで呟く。
結局食器を洗い終わった歌仙にも拭くのを手伝ってもらい、少し世間話をしてから、いつものように別れた。別れて部屋に戻るときに、襟に手を伸ばそうとしたときの歌仙の少し変わった反応を思い出す。あれは、なんだったのだろう。

「あなたたち、いつもいつも、仲いいですねぇ」
青江が店を放ったらかし、すっかりここの常連になってしまった歌仙とカフェで話し込んでいると、宗三がカチャカチャと音を立てながらお盆を持って来た。カップとソーサーを置き、桜の模様の入った鉄瓶を取り上げて歌仙のカップに紅茶を注ぐと、机の真ん中にそれを置いて去ろうとする。
「僕のは入れてくれないのかい?」
声をかけると、頭だけこちらを振り返り、
「あなたは自分で入れてください、僕も忙しいんですから」とカウンターに戻り、食べかけのクッキーをかじり始める。
奥の厨房から小夜が小さな焼き菓子の乗った皿と、ハムとチーズの挟まれたサンドイッチの乗った皿をお盆にのせ、運んでくる。
それを見るなり、歌仙は
「いつもながら見事なサンドイッチだね、お小夜。パンもよく焼けているし、見た目も美しい」
そう大げさに褒めて、お盆から自分の皿を取り、かじり始める。歌仙は小夜のことを『お小夜』と呼ぶ。一度そのことを聞いたら、「彼は僕の尊敬するシェフだからね、ソンケイゴ、というやつだよ」と自慢げに答えていた。
青江もお盆から美しく盛られた焼き菓子を取り、ありがとう、と声をかける。恥ずかしそうに小さく頷いた小夜は、厨房に戻って行く。サンドイッチが来た途端、静かになって食べ始める歌仙を見ながら、重たい鉄瓶の細い持ち手をつまんで、カップに紅茶を注ぐ。
窓の外で、自分の店の前を素通りして歩いて行く人々をなんとなく目に映す。
「そういえば、あの時計、出来たよ。見ていくかい?」
そう、歌仙に尋ねる。ここのところ歌仙は店の資金のやりくりであちらこちらを駆け回って忙しくしているらしく、今日会うのも、一週間ぶりだった。一週間前、青江の作業場をひっくりかえすようにして品物を物色していた歌仙に、このからくり時計、動くようになったら見たいから客に引き渡すのは待っていておくれよ、と言われていたのだった。
「ほんろうかい? みるよ!」
口にたくさんほおばったまま、興奮気味に歌仙が叫ぶ。と同時にカフェの戸が開き、入ってきた髪の長い男が歌仙の大声に驚いた様子で、ガラガラの店内の唯一客のいるテーブルに顔を向ける。
「青江、久しぶり。宗三はいるかい?」
慣れた様子で青江に話しかけるその男を見て、歌仙が知り合いかい? と訪ねたそうな顔でこちらを見つめる。
「宗三くん、さっきまでそこにいたんだけど、どこ行っちゃったのかなぁ」
まあ、座りなよ、と隣のテーブルの椅子を自分達の机のほうに引っ張ってくる青江を、緊張気味の強張った顔で見ながら、「その……僕は歌仙だ」とぎこちなく手を差し出す。
「青江の友達かい? 僕は蜂須賀というんだ。よろしく、カセン」
差し出された手を握り返し、薄い紅色の髪を揺らして微笑む。その笑顔をぽうっと見つめながら、綺麗な人だね……と小声で歌仙が呟く。
「嬉しいな、君も素敵だね。そのセーターの色、君の髪の色と良くあっていると思うな」
頬を染め、目をきらきらさせた蜂須賀がそう返し、嬉しそうに歌仙が俯く。
「挨拶は済んだだろう? 座りなよ」
いちおうそう促した青江を見もせずに座ると、
「そのブローチ、アンティークだろう? 宝石がたくさん使われているのに、上品な感じがして素敵だね」
「わかるかい? 結構値が張ったのだけれど、気に入ってしまってね」
「僕は骨董商をしているから、そういうものには詳しいんだ」
「俺の大叔父様も骨董に目がなくて、生前は家中に骨董が置かれていたんだ。家具類は俺が継いだから、今でも少し残っているよ」
「僕の店じゃ、家具類はあまり扱ってないんだ。いいなぁ、見てみたいよ」
「それなら、今度うちに見に来るといい」
「本当かい! 是非、頼むよ」
と盛り上がっている。
「おや、あなた、いつの間にか蚊帳の外ですねぇ」
気づくと宗三が青江の隣に立っていた。
「ああ、宗三くん、蜂須賀が用事あるみたいだよ?」
「わかってますよ、これを取りに来たんでしょう?」
宗三が大きな箱を持ち上げ、テーブルの上に置くと、まだ歌仙と話し込んでいた蜂須賀がそれに気付き、そちらに顔を向けた。
「助かるよ、宗三。いくらだい?」
蜂須賀が椅子から立ち上がって財布を取り出すと、歌仙もあたりを見回して時計を探し、壁にかかっている時計を見つけると、そろそろ僕も行かなくちゃ、と立ち上がる。
「それじゃ、蜂須賀。また会おう。今度は、もっとゆっくり」
「ああ。俺ももっと君の話、聞きたいな」
「おやおや、歌仙を取られてしまいましたね、青江」
親しげにするふたりを見て、宗三が楽しそうに話す。
それを聞いて、先ほどの話を思い出したのか、歌仙が青江の肩に手をかけ、後ろから鼻が触れるほど近く顔を寄せ、小声で話しかける。
「青江、また近いうちに行くから、今度こそ時計を見せてくれ」
「うん。お客さんがその時までに引き取りに来なかったらね」
「来ても渡さないでくれ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる歌仙に、それじゃあね、と座ったままひらひらと手を振ると、歌仙は慌ただしくカフェを出て行った。
「面白い人だね、青江。どうしてもっと前に、彼のこと紹介してくれなかったんだい?」
店に残された蜂須賀が青江に尋ねる。
質問に答えずにフフ、と妖しげに微笑んでそれじゃあね、と席をたち、ドアの向こうに消えて行く青江をぽかんと見つめて、取り残された蜂須賀は何か言いたげに宗三の顔を見た。
「面白いでしょう、あの二人」 
「あ、ああ……」
狐につままれたような顔をする蜂須賀の手に、取っ手を立てた箱を持たせ、宗三は彼を送り出した。

そうしてしばらくたったある晩、夜の寒さがしんしんと部屋に染みて来る時間帯に青江が作業部屋で研磨機を動かしていると、かすかに店の方から扉の開く音が聞こえた。また店の鍵を閉め忘れていたな、と気付く。歌仙だろうか。彼にはもう、二週間ほど会っていない。期待に胸が高鳴る。それにしても、彼が訪ねてくるにしてもさすがに遅い時間だ。と顔を上げる。それに、彼にしては大人しい扉の開け方だ。
「歌仙くんかい?」
試しに声をかける。返事が無いので不安になって機械を止め、手近にあったハンマーを手に取り、向こうを見ようとおそるおそる首を伸ばすと、ちょうどそのタイミングで歌仙が開いている扉の向こうから顔をのぞかせた。
「青江」
「なんだ、歌仙くんか、びっくりしたよ」
いつもはふんわりと顔を縁取っている髪が、ぺったりと顔に貼り付き、毛の先のほうはいつもよりもさらにくりくりにねじれている。湿った髪の先からぽたぽたと滴る水の粒が、あまり綺麗とはいえない作業部屋の床に新しく黒いしみを作り始めた。よく見ると着ている紺のシャツもびっしょりと濡れている。
「どうしたんだい? びしょぬれじゃないか」
急いでハンマーを置くとエプロンをはずし、拭くものが無いかあたりを見回す。汚れた拭き布、濡れたままにしておいたせいでしわくちゃに干からびたタオル、脱ぎっぱなしにしたTシャツ。我ながら碌なものが無いな、と呆れる。
「少し待ってて」
歌仙に伝え、二階の寝室でタオルを探し、タンスの底からやっと洗ってあるタオルを見つけて引っ張り出した。
階段を降りようと手すりに手をかけると、その階段の下で歌仙がうずくまっているのが見える。
「……歌仙くん? 大丈夫かい?」
階段を駆け下り、具合の悪そうな歌仙の隣にしゃがみこんで、その背をさする。いつもはあたたかな朱のさしている歌仙の横顔が青白く濡れていて、まるで別の人間のようだ。青江は自らの動揺を隠すように、冷たく濡れた彼の背に置いた手を機械的に動かした。
「大丈夫、少し飲み過ぎただけだ」
ふらふらと立ち上がろうとする歌仙を支え、その首にタオルをかけてやると、歌仙はタオルで髪を拭い、「ごめん、寄るつもりはなかったんだけれど」と震える声で囁いた。
凍えている歌仙の肩に、とりあえずそこにあったジャケットをかけ、ストーブを点ける。カウンターの椅子に座らせて水を注いだグラスを渡す。炊事場へ行ってヤカンを火にかけ、思案する。
彼に何かあったのだろうか。お湯が沸くのを待っていると、廊下で扉の開け閉めする音が聞こえ、歌仙の吐く音が聞こえた。「歌仙くん? 大丈夫かい?」と大声で呼びかけ、今にも湯気をあげそうにぶくぶくと音を立てているヤカンを放りだして歌仙の様子を見にいくか、少し迷う。なおも気がかりで廊下の方へ意識を向けていると、突然しゅうしゅうと音が立ち、湯の沸いたことを知らせた。ポットに茶葉を入れ、お湯を注いだ青江は、もう片方の手で引っ掛けてあるカップをふたつ取り、急いでカウンターの方へ戻る。
カウンターに戻ると、歌仙は先に戻ってきていたようで、キャッシャーの横で怠そうに突っ伏していた。音を立てないように持ってきたカップを置くと、紅茶の香りに気づいたのか、歌仙が顔を上げて「ありがとう、もう大丈夫だから」と弱々しく返事を返した。いつもと違うその声が、自分の心をざらざらと波立たせる感じがする。なんともいえない焦りが心の底にぷつぷつと泡立ち、ポットを持った手を震わせる。
「来なよ、着替えたほうがいい」
2階のほうをポットの注ぎ口で示すと、歌仙が何も聞かずに指示に従って階段をのぼり始める。それだけで、青江の心はまた混乱しはじめ、精神の輪郭をやすりで削られているような苛立ちがぞわりと足の方から這い登って来るような気さえするのだった。

「シャワー、浴びるかい?」
尋ねた青江に無言で頷きを返した歌仙を風呂場へ案内する。
「お湯、出ないかもしれないけど」
シャワーをひねり、その穴を睨みながら少し待っていると、温かいお湯が出てきた。
「お湯、出そうだ」と振り返ると、歌仙が脱いだシャツを持って、「これ、ここに置かせてもらっていいかい?」と洗面器を指さす。
「ああ、うん。いいよ」
「青江」
何故かどぎまぎした気分になり、気まずくなって部屋を出ようとすると、歌仙が伏せていた目をこちらに向ける。ああ、今日歌仙の目を見るのは、これが初めてかもしれない。そんなことを考えながら、なんだい、と返事をすると、「その、ありがとう、青江」と言った。およそ歌仙の向けそうにない、頼りなさげな、少し泣きそうなその表情を見ていたくなくて、「いいんだ。……ねぇ、よかったら、何があったのか後で話してくれ」と、目をそらして答え、開けたドアから廊下に出る。カチ、と小さな音を立てて大人しく閉まったドアを眺め、少し待っていると、中からシャワーの音が聞こえ始め、青江も寝室に足を向けた。
クローゼットを開け、洗ってある自分のシャツから歌仙に似合いそうなものをみつくろって持っていこうとした時、風呂場で見た歌仙の体つきが頭をよぎった。思い直して持っていたシャツを戻し、奥から大きすぎてしまってあったシャツを取り出す。歌仙には似合わない柄だが、そこは我慢してもらおう、とそれを持って廊下へ出る。風呂場からまだシャワーの音が聞こえることを確認してから扉を開け、シャワーカーテンの向こうに「着替え、ここ置いておくから」と声をかけて部屋を出る。
入れたまま忘れられて少し渋くなった紅茶を飲みながら部屋のソファーで本のページをめくっていると、廊下で扉が開く音がして、歌仙が出てきたのがわかった。「ここだよ、歌仙くん」とソファーから立ち上がり、ドアに向かって声をかけると、そのドアが開いて、歌仙が入ってくる。
「へえ、ここが君の部屋かい?」
顔色が戻り、さっきよりも少し元気そうなその様子を見て、安心する。お茶、入れ直すよ、とポットを持ち上げると、いや、それでいいよ、と歌仙が自分の分のカップをテーブルから取り上げて、青江のほうに差し出す。そのカップに茶を注ぎ、並んでソファーに腰掛けて、渋くなったぬるい紅茶を飲む。カップが空になると、歌仙はそれをサイドテーブルに置き、宙を見つめたまま、「店、潰してしまったんだ」と呟いた。「そうか」と青江もつぶやき、背もたれに頭を預ける。ふたりの間に沈黙が漂う。窓の下から、酔っぱらったカップルの笑い声が聞こえる。
「そうだ、髪、乾かすだろう? ドライヤー、持ってこようか」
唐突に尋ねると、ああうん、と歌仙が答え、青江はシャワー室からドライヤーを取ってきた。「ふふ、乾かしてくれるんだろう?」椅子に座って笑いながら冗談めかして言う歌仙の顔面に、スイッチを入れたドライヤーの風をゴーッと吹きかけると、くすくすと歌仙が笑い声を上げる。歌仙の首にかかったタオルを取り上げて頭にかけ、ぐしゃぐしゃとかき回し、乾かし始める。表情は見えないけれど、先程までこわばっていた歌仙の肩がだんだんとほどけていく。その様子を見ている青江も、自分が緊張していたことに気づき、気持ちがほぐされていくのを感じていた。
「そのシャツ、大きさ大丈夫だったかい?」
青江が聞くと、
「ああ、動くと少しきついけど」
とタオルの下からくぐもった声が聞こえる。やっぱり、僕より1サイズ上か。そんなことを思いながら乾かしていると、その髪がいつものふわふわとした質感を取り戻し始め、仕上げに柔らかなその髪を手ぐしで梳かしながら、毛先を乾かしていく。歌仙の体から立ち上る、青江のそれとは違う香りが部屋に立ち込め、青江は自分の部屋が歌仙に占領されてしまったような気恥ずかしさを感じた。
すっかり元通りになった頭を、よし、いつもどおりだね、とくしゃくしゃ、と撫でると、「あ! 青江! なにするんだい」と歌仙が叫ぶ。反撃しようと、青江の頭に手を伸ばす。その手を躱した勢いで青江がバランスを崩し、ソファーに倒れこむと、その後を追ってきた歌仙もソファーへダイブした。その上にのしかかり、青江の髪をぐちゃぐちゃにした歌仙は満足したように一息ついて、彼の胸の上に頭をあずけて寝そべった。
「今日はここで寝てしまうかい?」冗談めかして青江が言うと、「良いね、今日はもう眠たいよ」と歌仙が返す。
窓の下の、先程のカップルの声が遠ざかってゆき、外から聞こえるのはまた雨の音だけになった。窓のこちら側では青江が点けた赤外線ストーブが小さな音を立てて回転していた。オレンジ色の光がこちらを照らし、ベッドを照らし、そしてまたこちらを温めようと戻って来る。
「ねぇ歌仙くん、あんなふうになるまで飲むなんて、君らしく無いよ。たとえ……」
君の店が潰れたとしても、と言いかけて、その言葉が歌仙を傷つけるのではないかと思い、飲み込む。
「……ぼくらしいって、どんなだい?」
ジジジ、と音を立てて、ストーブがベッドを温めるために回る。途端に寒さを感じて、身震いをする。
「ねぇ、君、僕のこと……」
青江が言い終える前に歌仙が体を起こしてこちらに向き直り、食い込むほどに強く青江の肩を押さえつける。
そうしてしまってから、歌仙はまるで井戸の淵から身を乗り出すようにして深く青江の内を覗き込んだ。
青江の方から歌仙の暗く影になった瞳の奥が見える。瞳の中の、ゆらゆらとゆれるざらついた感情の表面を、押さえつけられていることも忘れて、美しい景色でも見ているような心地で眺める。
メデューサという化物が出て来る神話、あれはどこの国のものだったろうか。声が出せないまま、青江は目を逸らすことができず、ただ魅せられるように眺めていた。
思いがけず、その表面がふわりと渦を描き、歌仙の舌先が青江の半開きのままの唇をなぞる。ふうっと息を吸い込み、何か言わなくては、と焦る青江の開いた歯の間に、ざりざりとした舌を入れ、その口を開くよう、促される。青江は、何をいうこともできないまま、歌仙の瞳の内側で揺れる、感情の渦をじいっと見つめていた。
歌仙が目を閉じ口を塞がれてしまうとそれは見えなくなってしまう。覆いかぶさる歌仙の重みが、さっきまで眺めていた渦の下に、僕を沈めるための重しを連想させた。
自分の中に舌をねじ込ませてくる歌仙を感じながら、青江は泥のように重たい渦の中に吸い込まれていく自分の姿を想像していた。くるくると回転する渦の中で僕はちっぽけな肺の空気を吐き出し、侵食されて溶けてしまうのだ。コーヒーの中に砂糖を溶かすように。
「あおえ」
しばらくして、唐突に青江を解放した歌仙が、夢を見ているような目をこちらに向ける。
「ぼくは……。すまない」
「構わないけど」
謝られたのがなんだか気に食わない。ふっと目をそらし、コーヒーのことを考えていたのをごまかすように、感情をのせず、短く発した言葉の端がふらふらと揺れる。

青江の返事を聞き、一瞬目の奥を震わすと、歌仙はソファーから起き上がり、青江の側から遠ざかった。体を遠ざけてしまうと、彼の感情の風景が見えなくなってしまい、そのことを残念だと、ぼうっとしたまま考える。
そうしている青江をよそに、ベッドから降りた歌仙はそそくさと身支度をし、魔法のように乱れた服を直してしまうと、帰るよ、とひとこと声をかけ、返事も待たずにそそくさと1階へ降りてしまった。
「……」
それがあまりにも素早く突然だったので、まだぼんやりとしていた青江が我に返って後を追い、階段の手すりから身を乗り出してかけるべき言葉を選んでいる間に、歌仙は店の扉の外へするりと飛び出していってしまった。